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2007年6月の記事

2007年6月30日 (土)

パートII 第1回  富士フイルム株式会社 イソムラアユム氏

あなたのプレゼンは伝わっていますか?
~イソムラ式ユニバーサルプレゼンテーション~

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 私は、富士フイルムのデザインセンターで20年弱、プロダクトデザインをしている。今日の話の内容としては、業務や個人的な活動の中から感じたことのプレゼンテーションのノウハウを紹介したいと思う。私はそれを勝手にイソムラ式と呼んでいるが、文字に頼らず、ビジュアルから感じていただくやり方で、他にはない面白いやり方だと思っている。参考にしていただけたら幸いだ。本日は450枚程度のスライドを使用する。 最初に、そもそも私はどんなデザインをしているのかお話しする。ユニバーサルデザイン(UD)はキーワードで、本日のプレゼンの中に織り込んでいくが、それについての紹介をしたいと思う。また、プレゼンテーションやコミュニケーションは相手のことを知ることからはじまるが、これをサブテーマとしてお話ししたい。

本日のアジェンダ

1 ユニバーサルデザインとは、
2 私のキャリアストーリー 
  そもそもデザインとは
  ユニバーサルデザインとの出会い
  出版のいきさつ
3 イソムラ式プレゼンの紹介
  プレゼンテーションのノウハウを体系的にまとめもので、具体的に使えるエッセンスが盛り込まれている。
4 イソムラ式プレゼンのデモ
  スライド400枚をドンドンみせながら飽きずにビジュアル中心で楽しいプレゼンテーションを実際にお見せする。テーマは「5感を意識したデンマークのデザイン」で、デザインに興味のない方もこんなアプローチがあるのだな、と思っていただければよい。

1  ユニバーサルデザイン(UD)とは?そしてその定義とは?

 UDとはできるだけ多くの人が利用可能であるように、製品、建物 空間をデザインすること。ノースカロライナ州立大学のロン・メイスという方(彼自身も身体障がい者)は、公共空間は障がい者も対象に含めて、きちんとデザインを考えるべきと述べている。彼はポイントを7つ挙げている。

・ Equitable Use  (エクイタブル ユース) 公平に誰でもつかえること。

たとえば入り口は車椅子の人でも通れるように設計する。

・ Flexibility in Use (フレクシビリティ イン ユース)

使用する際に柔軟性があること。たとえば、右手でも左手でも操作を可能にするなど。

・ Perceptible Information (パーセプティブル インフォーメーション)

いろいろな知覚に訴えるデザイン。見ても、触っても、聞いても分かる情報。

・ Low Physical Effort (ロウ フィジカル エフォート)

体力をそんなに必要としないデザイン。たとえば、握力がなくても開けられるとか、鞄をもっていて、手がふさがっていてもひじで開けられるようなデザイン。

・ Simple and Intuitive (シンプル アンド インテュイティブ)

簡潔で直感的。文字で読ませるのではなく、シンプルに絵で表現する。

・ Tolerance for Error (トレランス フォー エラー)

失敗した時にやり直しができるようなデザイン。

・ Size and Space for Approach and Use (サイズ アンド スペース フォー アプローチ アンド ユース)

 誰でもがアプローチでき、使用できるように、充分なサイズとスペースがあること。たとえば、車椅子でも通れる改札口。 このような観点でデザインをすれば、できるだけ多くの人が使用することができるだろう。日本の例で言うとこのようなものがある。

・コクヨのはさみ、カスタネットのような形をしているので、手に障がいがある方も含め、いろいろな人にとって使いやすい。
・コクヨのマグネット。マグネットは強すぎるとはがすのが大変だが、このマグネットは曲がるので取り外しが簡単だ。
・オクソというアメリカ製の軽量カップ。目盛りは普通、横に表示されるが、これは上に表示されているので、上から見て分量がわかる。
・フジフイルムの「写ルンです」。握りやすくしてある。
・リモコン。普通のリモコンと違い、文字を見ながらボタンを押せる。お年寄りに使いやすい。

 以上、ユニバーサルデザイン(UD)製品の事例を紹介した。しかしUD製品という言葉は言い方として少しおかしい。UDとはできるだけ多くの人が利用可能であるように製品、建物、空間をデザインすることで、あくまでもプロセスの定義である。UDのプロセスはいろんな人に対応した便利な機能を盛り込む、そのためにはどんなユーザーがこの商品を使うかという事を知る必要がある。実際に仮説を立ててデザインをしてみて、その人たちに使ってもらうというプロセスを経ながらデザインする、そのプロセスをUDと呼ぶ。 例: シニアの人たちはどのようにPCをどう使うか。シニアの方はそもそも言葉自体がわからないし、マウスの使い方も分からない。拡張子、ウィンドウなどの言葉を知らない人がいる。そういう相手の人たちを理解することからプロセスは始まる。それはつまり現場に行くということでもある。 相手を知るためには、たとえば、被験者に写真のプリント注文をしてもらう。企画者・設計者は被験者がどこでつまずくか観察する。つまずいた所が、改善の余地あるところである。これはユーザビリティテストという。使いやすさのテストであるが、それを通じて相手を知る。 まとめとして、繰り返すがUDはデザインの商品を定義するのではなくて、デザインのプロセスを定義することである。そのために大事なのは相手を知らなくてはならないということだ。

2 私のキャリアについて

 1966年誕生。金沢美術工芸大学、工業デザイン専攻卒業。
卒業制作としてコンピューターの未来形を考えた。8角形の形をしていて、真ん中で割れる。その中にはキーボードとプリンターがある。これにより、ハウジングの会社の営業は現場(顧客宅)で、お客の希望を聞きながらデザインしそれをプリントアウトできるようにな.る。これをデザインするために、三澤ホームやハウジング会社に行って、どのような営業ツールを使っているのか、どのようなことに困っているのか、相手を知ることから始めた。

 富士フィルムに入社後も、相手を知ることにつとめながらデザインした。たとえば、このビデオカメラは、使っている人の様子を知り、左手の親指部分にダイアルがあれば使いやすいだろうと思いデザインした。また、ビデオは縦型にすると脇が閉まって固定し揺れない。 UDは相手を知ることから始まる。実は普通のデザインも同じである。普通のデザインとUDの違いは、UDはより多くの人を知ろうという事である。普通のデザインの場合、対象は、若者とか、女性とか限定されるが、UDは反対に、対象が広く障がいのある方も含めて考える。

 さて、本の出版に関して少しお話しようと思う。UDを行いながら、いろいろな障がいのある方などにお会いして話を聞く機会があった。そして、相手を知りたいという気持ちが高じて、思いついたことがあった。それは視覚障がい者はカメラを使っているのだろうかという疑問だった。 実際は彼らもカメラを使っている。写真を取って家族に見せ、コミュニケーションツールとしている。誤解のないように言うと、障がいのある方は、私が知らないツールの使い方をすることがある。そのことに興味を覚えた。他に事例を集めて、社内の人にこのような使い方をしている人がいるという事を知らせたいと思った。たとえば、視覚障がい者はフォーカス機能を使うことができない。対象をどこに向けているか分からないから、フォーカスができない。そこで、富士フイルムの「写ルンです」はパンフォーカスというフォーカスするタイムラグがない仕組みが組み込まれており、視覚障がい者でもピントがあった写真が撮影できる。それから実際に製品を使っている現場を見たいと思い、ユーザビリティ評価体制を構築することになった。 使ってくれている人を知りたいという気持ちは、だんだん高じ、対象が障がい者含めて広がって行ったが、プライベートでも障害者の方と一緒に活動をすることが多くなっていた。その中で、UDの研究にプライベートでデンマークに視察に行った時のことを、頼まれてある団体で報告を2回行った。私は障がいのある方と接していると、いろいろなことを気づくが、障がい者も理解できるプレゼンテーションは可能なのだろうかと考えた。そこで耳の聞こえない方にはスライドにテキストをすべて挿入しておけば大丈夫ではないかと思い、トライをしてみた。 そこで分かったことは、耳の聞こえない人は、スライドのみならず、私の口の動き、表情、ボディランゲージをすべて見ているという事だ。また、目の見えない人は、音声からしか情報がないために、今、どこにいるか、全体の概略と位置と知りたがっていた。これは普通のプレゼンでも同じことだと思った。障がいの人から大事なことを気づかされた。こういう発見を自分の中だけにとどめておくことはもったいない。どんどん広めていきたいという思いがつのり、それで出版という事になった。

3 「あなたのプレゼンは伝わっていますか?」

 本の内容、プラスアルファをお話しする。伝えるためには伝える方法を知ることが大切だ。3つのポイントが挙げられる。 1.内容をどう組み立てるか 組み立てに関して4つのポイントが重要となる。

① 聴衆は誰か。
  相手を知る必要がある。私は暗い映画館で手を引っ張られている人を想像する。いきなり連れて行かれると恐い。どこにいて、どこに向っているの?少しずつ納得したい。聴衆はそういう人たちだと思う。

② 一歩ずつ進む。
  具体的には一枚ずつ結論する。小さな結論の集積で大きな結論につなげる。一歩ずつ進んでいくことが大切だ。

③ 部分と全体を行ったり来たり。
  全体の俯瞰ができるように全項目を見せ、その中で今、どこにいるかを知らせるために部分と全体をいったり来たりする。情報は羅列でなく、グルーピングをすることにより理解しやすくなる。グルーピングは3つにされる場合が多い。

④ 目的の明確化。聴衆にスポットをあてて、聴衆の立場から以下をはっきりさせる。 
  聴衆が困っていること
  聴衆に提案すること
  聴衆に期待すること

2.スライド資料をどう作るか

4つのポイントがある。
① 見やすいフォント。いろいろな人にとって見やすいとフォントとは、切れず、くっつかず
に、紛らわしくないもの。等幅のゴシック体が見やすいといわれている。
② 文章の扱い方。意味にあわせて行を変え、スペーシング、句読点を考える。
③ 背景の扱い方。さっぱりした所に、はっきりと。写真の上にテキストを載せる場合などちょっと工夫すると見やすくなる。たとえば、写真を少しトリミングするなど。
④ グラフの表現。直感的に分からせる。色盲、色弱の人への配慮をしよう。たとえば、赤いレーザーポイントより、緑の方が8倍明るいといわれている。

3.自分をどう表現するか

① ノンバーバルコミュニケーション(非言語コミュニケーション)
  見た目も大事であるということ。同じことを言うのでも言い方よって、伝わり方が違う。
  メラビアンの法則ではボディランゲージの重要度は非常に高い。日本人がよくする手を前で合わせるしぐさは外国では「イチジクの葉」としては揶揄される。

② プレゼンすること、本当に気に入ってますか。
  自分が本当にそうだと思えないものは人は良いとは思わない。がつんとあなたの思いをぶつけること、それが大事だ。

4.イソムラ式プレゼンテーション・デモンストレーション

 「5感を意識したデンマークのデザインについて」のテーマのプレゼンテーションをデモする。イソムラ式とは以下に要約できる。

① 障がいを持つ方を起点としているプレゼンのノウハウで
② 当然、より多くの人が一緒に理解できる。
③ 字幕付プレゼンテーションで、
④ 目と耳で「感じられる」プレゼンテーションといえる。

デモンストレーション内容ならびに質疑応答は割愛。

以上

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2007年6月17日 (日)

第9回 ジャーナリスト、ICU・上智大学講師 村上むつ子さん

英語を磨いて世界を拓くⅠ

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英語との出会い
 私は東京の出身なのですけれど、小さい時は、本当に普通の、目立たない、恥ずかしがりやの女の子でした。活発といえば活発でしたが、それは、中高と女子だけの学校だったからです。共学だと男子が委員長で、女子は副委員長でなく、女子がなんでもできたから。スポーツや演劇に熱をいれたのも高校生の後半です。私は私立のミッション学校にいっていたこともあり、英語の授業にはネイティブスピカーの先生がいました。そのうち、英語って受験のためだけじゃない、自分の言いたいことが通じる言語なんだとわかってきました。日本では英語は試験のためだけの勉強になりがちですよね。
 大学は上智大学に進学しました。私はここで、恩師というべき先生にも出会いましたが、授業ではアメリカ人の先生がたにいつも自分の意見を求められました。あなたはどうなの、と問われるわけで、説明しようと必死に英語の言葉を探します。また、学生運動盛んな時に英字新聞部にいたので、学内で起こっていることについて記事を書くには、自分が責任をもって説明する必要があります。アカウンタビリティということですね。そのために表現・コミュニケーションというものに意識が向いてきました。人に伝えて伝わったときの達成感、責任感というものを体感する経験をしたのです。

アメリカのジャーナリズムに飛び込む
 就職活動の時期になりましたが、私には新聞社くらいしか考えが浮かびませんでした。当時は雇用機会均等法などないので、企業の求人に女性の枠はありません。当然、記者職に女性の募集はありませんでした。それまでは中高は女子高で、大学でもあからさまな性差別はなかったので、就職の際にはじめて女性だから募集がないことについて驚いたわけです。
 卒業後、ブラブラしているうちに、アメリカのシカゴ・トリビューン紙の東京支局のエディトリアル・アシスタントの仕事を紹介され、フルタイムの仕事を始めました。そこは私と支局長しかいないので、いろいろなテーマで意見を求められました。自分の意見が記事に反映されるので、日本の社会情勢を常に勉強し、情報に対して網を張っていましたね。
私はこうしてアメリカのジャーナリズムに入ったのですが、最初はつらかったです。とにかく人生で初めて朝から晩まで英語漬けで一日が終わる頃には頭が痛くなる。「イングリッシュ・ヘッドエイク」と呼んでいました。でも毎日、新しい体験を獲得できて、勉強になり、楽しかったです。
 当時は70年代半ばでウーマンリブが入ってきた時代です。1975年から10年間、国連主導で女性の差別をなくそうという運動が公のものとして始まった時期でした。私の20代はまさにその渦中。日本でも平塚らいてうの思想をベースとした独特の女性運動が見直され、日本独特のスタイルの女性の運動が始まっていました。
 20代からアメリカのジャーナリズムに関わっているうちに、日本が外からどう見られているかもわかるようになってきました。アメリカが当時、日本に対して持っていたイメージは「フジヤマ」「ゲイシャ」。日本についての記事ならなんでも、そういう言葉がタイトルにもそれがつけられる、そんな時代でした。
 シカゴ・トリビューンの東京支局では、私もまずはフィーチャーストーリー(軽い読み物記事)を書く仕事を任されるようになりました。私はトイレットペーパーの記事を書きました。単語がプリントされているトイレットペーパーで。掲載してもらうために、写真付きで送ったら大きく取り扱わたのです。支局長が出張中に、喜ばれてしまい、その後も政治や経済の記事を書くチャンスが回ってきました。
 ところが仕事を始めて5年くらいたって、母国語じゃない言葉で記事を書くことに対して、このままでいいのかな、と思い始めました。 そこで20代後半、1年間ニューヨークの大学院でアメリカ流のジャーナリズムの基礎を勉強しなおしました。修士号を取得して帰国しましが、30近くの女性が。留学して勉強してきたことを生かせる仕事はなかなかないのです。今すぐ就職しなくても、と思っている内に、フリーの立場で取材、執筆を頼まれるようになり、継続して記事を書くようになりました。その結果、10年間はフリーランスの記者として仕事を続けました。来た仕事は断らないでいたら、まったく知らない分野、たとえばマシンツール(工作機械=機械をつくる機械)や産業ロボットなどの記事を書いてくれという依頼も来るわけです。そのたびに必死に勉強して書きました。鉄鋼、金属にまつわる記事なども書き、全工業を勉強する結果になり、おかげで怖いものはなにもなくなりました。

アジアウィークを経て大学で教鞭をとることに
 その頃、アジアウィーク誌にも、週に1、2本の記事を書くようになりました。アジアウィークは1976年に発刊されたアジア地域の英語のニュース雑誌ですが、その後、急成長を続けたため、日本に専任の特派員が欲しいということになり、私は正社員として迎え入れられました。ちょうどその頃、私は人生の大きな節目に入っていました。それまでは英語で記事を書くと言えば、アメリカの読者のために記事を書いていました。が、今度はアジアの読者に向けて書くという点で、アジアからものを見るという経験を積み始めていたのです。たとえば、貿易摩擦や東アジアの近代史を日本だけでなくアジア地域の視界でみる、というようなことです。また、80年代のアジア経済の急成長を見つめながら、地域全体の中の日本の位置づけを学ぶことにもなりました。また、90年代、バブルがはじけた日本の「失われた10年」も外からの眼でみながら報道する、ということをしました。アジアウィークはアメリカのタイムの系列に入り、成長を続けていました。
 私が50代の半ばに入ろうというころに、9.11事件が起こりました。その影響で広告市場に動揺があり、結果的にアジアウィークが廃刊となり、私もアメリカ系メディアからはなれて、自分のこれからを考える時間を自分に一年ほど与えました。
 その後、大学で講師として教えるという機会を得ました。もともと、記者の眼で日本の若い人のことが気になっていました。非常に幼い、歴史観などが薄い・・・など。日本で生まれ育つと、社会性や社会的責任感が育まれる機会が乏しいのではないだろうか、それには「アクション・ラ−ニング」「体験学習」の手法でジャーナリズムを教えることがなにかの役には立つのではないか、と思ったのです。上智大学、国際基督教大学、聖心女子大学でジャーナリズムやコミュニケーション、英語のライティングなどを教える中、サービスラーニングという教育手法にも出会い、現在はそれに力を注いでいます。こういう私の半生を振り返り、考えの流れや進展を思うにつけ、英語を手にしたことが大きかった、と思っています。

英語を獲得することで広がる視界
 世界の中で、ネイティブで英語を話すのは約3億6000万人。第2言語としては約10億から15億人と言われています。特にインド・中国では、毎年何千万人と英語をあやつれる人口が増えつつあります。日本人も日本語だけの価値観の中に閉じこもって暮すのでなく、英語を知ることで10億人の価値観を知ることができるというのはすごいことですよね。日本の中では英語をひたすら崇拝する風潮も一部にありますが(英語帝国主義論とも言われますが)、世界中にITが広まるにつれ、英語が主流言語としてインターネット世界の基本言語として広まったことは事実です。その結果の不平等つまりEnglish Divideもあります。英語が出来れば国際的かという疑問も生まれています。が、東南アジア各国や、インドでは、なまりのある英語を堂々と話しています。私自身も今までの体験から、英語を獲得すると、欧米の人々だけでなく、アジアや他の地域の人々ともコミュニケートできるのだと、実感しています。英語が日本語と同じように使えると、豊かで楽しい人生になっていくはずです。

■視界は地球規模に広がる
 英語を獲得すると、情報の量と質は地球規模になります。経済の記事は日経で読むより、英語で読むほうが断然わかりやすいとわかります。たとえばウォールストリートジャーナルの記事で見ると、トヨタ売上1兆円突破という内容については、GMと並び評され、世界中の自動車業界でのポジションという視点で書かれています。国内紙では日本からの視野を越えて地球的視野で、とはいきません。
また、世界のトレンドやファッションもより多く早くわかる。BRIC’sについて、環境とファッションの結びつきとか。日本語ではでてこない切り口・視野の読み物が多いです。医療についても、例えばアメリカでは新薬情報などがディスクローズされていることが多いので、英語がわかれば、インターネットでどんどん最新の情報が入ってくる。その情報がすべて自分に直接に役には立たなくても、医師に伝えることで状況が変わるケースもあるわけです。
 日本がどのように見られているか、も世界標準の視点がわかります。英語情報での安倍首相就任の際の記事、柳沢厚生労働省大臣の「産む機械発言」などを見ると、日本での扱いの切り口と違います。
 今年の1月1日の資生堂の広告は、女性が裸で子供を抱いている。母性賛歌が全面にでている全面広告でした。私はこれを見てゲンナリしました。日本では女性を讃歌する母性強調スタイルが根強いですね。柳沢発言につながると思います。

■人生の見え方が変わる
 私は自分のことはフェミニストだと思っています。若い頃、「The Feminine Mystique」という本と出会いました。郊外の一軒家で家族と暮す幸せな母親となることが幸せ、というイメージが一般的だが、現実ではそういう暮しイコール女性の幸せではないことも多い、という内容です。いまだに日本ではこういうメンタリティが続いているのですが。
 また、日本の立場がよくわかるようになります。特に歴史における日本の立場について、これはアジアウィークで記者生活をしている中で学びました。

■日本の女性のイメージがわかる
 欧米のゲイシャ、毎年ゲイシャと名の付く本や記事が毎年出ています。日本女性のイメージといえば従順であまりものを言わない、あるいは、くすくす、きゃっきゃと笑う女性のイメージが浸透しています。もっと現代的なイメージとしては、金遣いが荒い、おしゃれと思われていますし、海外では場所によっては、日本女性は性的に開放的だとか、誘えば簡単にひっかかるとも。日本女性は愛のない結婚生活をしている、と信じこんでいる人もいます。
 日本では、演歌的な女性像が世の中にばら撒かれていることも特徴です。「私バカよね」「お暇なら来てよね」と言った歌詞に代表されるように、家庭で求める母性としての女性と酒場での女性像が2極にステレオタイプ化している。私は演歌よりビートルズの歌に描かれている女性像の方が好きです。彼らの愛の歌の中には、「僕たち、いっしょに人生をなんとかしていこうよ」という歌詞の歌があります。女性を同じ人間としてみており、母性やセックスの対象としてしか女性を見ないという昔ながらの日本の女性像とは違うと、私は若い時から思いました。また家族像でも、日本ではドラマでも広告でも女性と子供が家にして、お父さんは外というイメージがまだ強いですね。
 たとえば、2003年から2005年の26ヶ月間、日本においてわいせつ行為で免許を剥奪された教師は、なんと255名もいたそうです。免許を取り上げられていなくとも、そういう教員はもっといるでしょう。また、世界中でばら撒かれている児童ポルノは、95%以上が日本発といわれています。女性をイコールパートナーと見る目を育つ機会がないままに大人になっている日本の男性が多いのではないか、と私は思っています。
 英語を獲得することで、メディアリテラシー、クリティカルシンキングを身につけて日本のメディアをうのみにしないこと、日本がどういう位置にあるのか、自分の立ち位置について考えることも、英語を獲得する中で得られたことです。

英語をどうやって勉強するか

とにかくたくさん読む・聞く・話す、これが上達の道だと思います。

①趣味の道から入る
好ききなものから。たとえば映画など。私は栗原はるみさんの英語の料理本、スポーツ、アート(ネットサーフィンで建築物を見る)、音楽(ボノやクリントイーストウッドの活躍が気になる)

②推理小説から入る
先へ先へと読み進めることができるのでいいです。

③日英でニュースをチェック
Yahoo.com、韓国中央日報、CNNをかけっぱなしなど。

④NHKの「英語でしゃべらナイト」はお薦め

⑤英語を話すチャンスを作る
地域ボランティア、国際交流NPO、スタディツアーズに参加する。休暇中に海外の人と自宅交換をするというのも面白い。

⑥音読のススメ
声を出して読むほうが頭に入る。好きな映画のスクリプトを読む。

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2007年6月 9日 (土)

第12回 プラティエス㈱社長 池澤ショーエンバウム直美さん

プロアクティブな《きっかけ》作りがキャリアを変える

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 私は2年前にプラティエスという会社を作りました。その理由は人の集まる広場を作りたかったからです。ギリシャ語で広場を意味するプラティアの複数形がプラティエス。どうせ作るならたくさん広場を作ろうと思いました。これから転機の多かった波乱万丈の私のキャリアの軌跡をお話ししますが、今日のこの場も私たちの広場、どうぞ何時でも何でも質問をしてください。

変身願望、「らしくないこと」への挑戦を続けた学生時代
 自分のコアがいつ出来たのかを考えると、たぶん中高時代に遡るのではないかと思います。中高時代の私はいわゆる優等生でした。でもそういわれるのが嫌で、表ではあえて馬鹿なことをし、家に帰ってはガリ勉をしていました。「いかにも~」と言うのに反抗していたわけです。今でもキャリアカウンセラーには見えないといわれると嬉しい。求められているイメージから、意表を覆すのが好きなのですね。中高時代は女優になりたかったし、留学もしたかった。自分には変身願望とともに、閉所恐怖症があり、広い世界でないと住めないと思っていました。大学はお茶の水女子大に入りましたが、ここでも「お茶大らしくない」大学時代を送りました。この時期に、その後に大きな影響を与える二つの運命的な出会いをしたと言えます。

 一つはある会社の学生重役を二年間勤めたこと。学生の柔軟な発想力を企業経営に取り入れたいというインターンシップの先駆けのようなもので、「ビジョン・スチューデント」という名前がついていました。2000人の学生が応募し、5次試験ぐらいまであったでしょうか、最終的に8人が選ばれました。女性は私だけでした。試験は、「10年後のあなたを描きなさい」というような荒唐無稽のものでした。学生重役として与えられた課題は「お金に糸目はつけないから、この世のユートピアを探してこい」という、これまた荒唐無稽なものでした。8人仲間は3グループに分かれて、東カロリン群島、西カロリン群島そしてマーシャル諸島に散りました。私は最初の年は東カロリン群島、2年目はニューギニアで、土地の人たちと一ヶ月を過ごしました。ポナペ島で居候をしていた家族とは、親子の誓いを結び、その後もずっと付き合うことになり、島の父が危篤の時には飛行機を乗り継ぎ看病に駆けつけました。でも、この2つの旅で分かったことは「ユートピアは心の中にあるという事」でした。あの時訪れた土地は、行く度に変化をしているのがわかりますが、私の心の中では当時のままで生き続けているのです。

 もう一つは池澤夏樹と知り合ったことです。今では押しも押されもせぬ大作家になりましたが、当時はもちろん、将来の予測もつかぬ風来坊でした。大学卒業後すぐに結婚をしました。池澤との28年の結婚生活で彼に叩きこまれたことは「大切なものは形にならない」ということでした。私が「モノ」を相手にするよりも、形にならない「人」を相手にすることが好きだし、向いていると思うのはこうした経験に端を発しているのでしょうか。

 実は、大学卒業後は、アナウンサーになりたかったのです。話す言葉で表現をしたかったからなのですね。そこで在学中にアナウンサーの学校に通いました。当時、「オールナイト日本」という深夜番組が流行っていて、高島秀武さんという売れっ子のパーソナリティがいました。ご近所で、横須賀高校の先輩でしたので、突然訪ねて行って「弟子にしてください!」とお願いしました。
 高島さんのびっくりした顔が今でも目に浮かびますが、一生懸命に訴える小さな女の子を放ってはおけなかったのでしょうか、仕事の後に、個人教授をしてくれることになりました。けれども、どこも最後の音声テストで落ちてしまう。声の適性は自分ではどうすることもできませんでした。

 そこで再び自己分析をして、何が好きかを考えました。広い世界に連れ出してくれる飛行機が好きで、空港で飛行機を見ていると文句なく幸せになることを思い出し、「それなら飛行機のそばで働こう!」と思って日本航空に入りました。その後、結婚や出産など、いくつかの転機があり、その度に職業選択をすることになりました。その時どきに自分に何が出来るか、何がしたいのかを必死になって考えました。今にして思えば、キャリアとは、転機、職業選択、スキルアップの経験を通して、3次元的にだんだん高く上にのぼっていくスパイラルだと思います。これから、私自身のキャリアを振り返りながら、私が考えるキャリアの理論的法則をお話しましょう。

キャリアのプロアクティブ7箇条

その1.歩き続ければ、線になる。

 多くの学生や社会人に個別ガイダンスを行ってきましたが、いつも言うのは「歩き続けてください」、「止まらないでください」という事です。歩き続ければ、絶対に先が見えてくる。歩けない時は足踏みだけでもよいから、止まらないで欲しいと言っています。私自身の例で説明したいと思います。

・ 日本航空に居たからこそ世界を知ることができた。
日本航空では社員特典がありましたから、世界中、好きな所に行くことが出来ました。夫は会社勤めをしているわけではありませんでしたから、何時でも旅ができました。二人でいろいろと行った中で、ギリシャがとても気に入って、ギリシャに住むことに決めました。そんな折に妊娠していることがわかり、親たちは大反対しましたが、「赤ん坊を産むのはどこでもできる。」と安定期に入る6ヶ月目を待って、ギリシャに移住しました。そして、JALアテネ支店のギリシャ人の友人の紹介で、在アテネ日本大使館で仕事を見つけ、出産後すぐに働き始めました。

・ 日本大使館に居たからこそギリシャ人とギリシャを知り、ギリシャ語を学ぶことが出来た。
ギリシャで仕事をするには、ギリシャ語ができなくてはならないので、YMCAの夜の学校に通って一生懸命勉強をしました。企業から派遣されている人たちと違って私たちは貧乏でしたから、外国人が住む高級住宅地ではなく、現地の人たちが住む一角にアパートを借りました。上の階から洗濯物が落ちて来ても、ギリシャ人と同じように怒鳴り返さなければならないような生活でした。その分、面白かったし、ギリシャ語も上達しました。ところが、父が亡くなって、3年後に日本に帰らねばならなくなりました。生活のために仕事を見つけなければなりませんでしたので、帰国前から、学んだギリシャ語を売りにできるオリンピック航空、ギリシャ大使館、ギリシャ政府観光局へと履歴書を送ってアプローチをしました。その結果、ギリシャ大使館商務部からオファーを貰いました。

・ 在日ギリシャ大使館に居たからこそ、いろいろな仕事に関わることが出来た。
ギリシャ大使館では、ギリシャ製品の対日輸出を伸ばすために、営業、マーケティング、見本市やイベントの企画・運営を一手に引き受けました。商務部には、ギリシャ人の商務官と私の2人しかいませんでしたので、政府との交渉から、商務官の水虫の薬を買うことまで、何から何までしなければなりませんでした。でも逆にそれがとても面白かった。そして、随分仕事を覚えました。日常的に仕事の場で使うのは、ギリシャ語と英語でしたから、おのずと英語力もついていきました。マーケティングや営業力、交渉力、企画力などの基本を実践的に身につけたこともその後の自分の強みになりました。けれどもギリシャの政権が社会主義に転じたのを潮時に、10年間働いた職場から転職をすることに決意しました。

・アモコに居たからこそ、自分に向かないものが良くわかった。
アメリカの大手化学会社、アモコが英語で営業が出来る人を探していて、そこに転職することになりました。アモコではポリマーというプラスティックの原料の営業をしましたが、そこで知ったことは、「好きなもの、わかっているもの」しか上手に売ることが出来ないという現実でした。たとえば、多少品質は劣っていても大好きなギリシャの製品でしたら一生懸命に説明し買ってもらうことができました。アモコの製品は品質的には世界最高のものでしたが、いかんせんよく理解できない難しいもので、惚れることもできませんでした。これではいけないと、思い切って退職しました。ジャパンタイムズの広告などで仕事を探す3ヶ月近い失業生活でした。そんな時に、たまたまICUの教授をしている旧友から電話がかかり、大学で人を探していることを聞き、試験を受けてみることになりました。25歳までの人を求めていたのに当時の私は39歳!年の功で筆記試験は一番で通りましたが面接で落ちてしまいました。「あんなにいろいろな仕事をしてきた人には、大学の仕事なんか面白いわけもない、すぐ辞めてしまうに違いない。」というのがその理由だったそうです。

・ 国際基督教大学(ICU)にいたからこそ天職に出会うことができた。
ところが、友人の教授が、「私のような人を採用しなかったから、当時の思わしくない状況があるのだ」と大学に掛け合ってくれて、副学長が決定を覆しICUで働くことになりました。以来、国際渉外事務室で国際交流プログラムに関わったり、財務副学長の秘書をしたり、広報課長や、就職相談室長、大学院入学試験の主管と16年間でいろいろな仕事をさせられました。おかげで自分に向いていることと、向いていないことがはっきりわかりました。外の世界に広がっている広報と就職はとても向いていて、業績もすごく上げることができました。けれども最後に配属された大学院の入試担当は、「世の中にこんな向かない仕事があるのか」と思うほどに自分には合わない仕事でした。入試の遂行に大事なことは、一字一句のミスもおかさないこと、そのためには長年築き上げられたマニュアル通りに事を運ばねばならない、クリエイティブであってはならないのです。「こんなことでは自分が段々自分らしくなくなる。」「自分よりできる人がたくさんいる仕事でこんなにお金をもらうわけにはいかない。」と悩んだ結果、就職室長時代に取得していたキャリアカウンセラーの資格を生かして自分が本当にやりたいことをしよう、と退職し、起業しました。予定より、5年も早い退職でした。

・ 起業してわかったこと
大学在職時代から講演を依頼されたり、インタビューをされたりする機会がけっこうありましたが、それは「池澤直美」だからではなく、「ICUの広報課長、就職相談室長」という看板があったからこそというのが良くわかりました。辞めてみれば一介の「池澤直美」でしかない。「あなた誰?」「あなた何?」からの出発です。そんな自分に仕事を依頼してくださるのだからありがたい、とつくづく謙虚になりましたね。また、小さいながらも経営者の視点を身につけることができ、ネットワークも広がりました。仕事は一生懸命やれば必ず誰かが見ていてくれて、次に繋がって行くということも実感しています。

その2.キャリアは積み木遊び

 歩き続けていればキャリアは線になります。その節目、節目には必ず次に繋がるフックがあります。誰にでも「こういうものを創ってみたい」という漠然としたイメージがあるはずです。それを創るには「どういう積み木を持ってきたらよいのだろうか」とか、「その積み木をどう組み立てればよいのだろうか」と考える力がキャリアのきっかけを作るフックになります。今の仕事に満足をしている時でさえ、「どういう事をしたい」、あるいは「どういう事はやりたくない」、というビジョンをもっておくことが大事ですね。

その3.惚れたが勝ち

 キャリアの選択、継続は恋愛に似ています。惚れた方が強い。今、せっかく就職した3割の学生が3年以内に辞めてしまうと言われています。私が新卒の人に言うのは、「せめて3年は居て欲しい」ということ。1ヶ月や6ヶ月では何のスキルも身に付きません。好きで決めた道、惚れた道ならば、嫌なことがあっても「惚れたんだからしょうがないさ」と我慢ができます。どんな辛い経験、自分には合わないと思う経験でも、そこから見えるもの、学ぶものがあるはずです。

その4.期限を設けて見直しをする

 一生涯、惚れた仕事を歩み続けるのも立派ですが、ある期限を決めて見直しをするのも大切です。仕事が辛くなったり、意欲が持てなくなった時は、「とにかくここまでは続けてみよう」と期限を決めてみると、不思議と辛いことも辛くならなくなります。私も起業してまだ2年ですから、正直、まだ辛いです。でも惚れて自分の足で歩みだした道だから我慢できます。2010年になったらリセットボタンを押して、いったん見直そうと思っています。そう思うとなおさら今できる仕事がいとおしくなる。一生懸命しなければと思います。キャリアはところどころに自分で節目を作って、これまで歩んできた道を見直して、棚卸しをすることが大事だと思います。

その5.迷った時は2つの特効薬

 人生には誰でも迷う時があります。その時は元いたところに立ち帰ってみること。私の人生で言えば、ビジョン・スチューデントになったのが原点です。今でも、当時の仲間と会えば昔の自分の事が思い出されます。当時は欲しいものを欲しいという素直な勇気があった、自分は何にでもなれるという可能性と夢があった。迷ったり行き詰った時には、あの時の自分にもう一回立ち戻ってみることにしています。

もう一つは、ここだけは譲れない自分のアンカーを知ること。キャリアを創る大きな力になるものには、ポジティブな要因とネガティブな要因があります。ネガティブなことによって、キャリアが拓けることもあるのです。たとえば大学在職中の最後に入学試験の総指揮を取る仕事に異動となりました。あれほど自分に向いていないことはありませんでしたね。そこで、キャリアカウンセラーとして自分自身にカウンセリングをしたのです。「あなたは何をしたいの?何を求めているの?何がそんなにいやなの?」と。<自分にとってこれだけは捨てられない、譲れないもの=キャリアアンカー>は何かという事を必死に考えました。そこで分かったことは、クリエイティブであることと表現することを失ったら、それはもう自分自身ではありえない、ということでした。計画より5年早い退職を決意したことにはそんなきっかけがありました。そして自分のキャリアアンカーを活かして出来ることをしたいという強い思いから、起業してキャリア・カウンセラーになりました。このようにネガティブなことも前に進む力になることを覚えておいてください。辛い時期が訪れたら、それはあなたが前へ進む転機かも知れません。

その6.思考錯誤があって当然。すべてのことはよい経験

 失敗があって当然と思ってください。私の例を話すと、起業して浮き足だっていた頃、来る仕事をすべて受けていた時期がありました。愛地球博の時に、ゴビ砂漠の砂を売って欲しいと頼まれて、いろいろな仕掛けを作って売ろうとしましたが、大失敗をして負債を背負い込んでしまいました。そこから学んだことは、面白いけれど物販は素人であること、面白い、興味があることと出来ることは別ものだという事でした。二度と同じ失敗はしないだろうと思います。

その7.大事なのは節目節目に真剣に考えること

 リスクを頭のどこかに置くことは大切ですが、リスクに捕らわれ過ぎてはいけません。その時、その時に一生懸命考えれば何とかなるさ、というようなある種、楽観的なアバウトさも、キャリアを作るプロセスの中では大切だと思います。

キャリアカウンセラーへの道


 なぜ、キャリアカウンセラーになろうと思ったのか、とよく聞かれます。大学で4年近く、毎年400人近い学生と一対一で向き合ってガイダンスをする中で多くのことを学び、スキルを身につけていきました。カウンセラーは説明をするのではなく、学生が自らの価値に気づくように仕向けなければなりません。伏し目がちで入ってきた学生が、自分の価値に気づいて目が輝き始める時に感じる喜びは何ものにも変えられません。もうひとつの思いは「あなたは何ですか?」と聞かれて「私は○○です。」と答えることのできるスペシャリストになりたかったことです。私は中途半端にいろいろなことをしてきて、ジェネラリストとしての幅は持っていましたが、スペシャルな分野となるといったい何かしらと首をかしげざるを得ませんでした。ようやく、今、「私はキャリアカウンセラーです。」と堂々と言えるようになりました。

 キャリアカウンセラーには向き不向きがあります。私は、人間が大好きで、聞き上手、励まし上手であると人に言われてきました。どんな人の中にも良い所を発見できる特技もあります。いろいろな仕事をしてきた自らの広い就業経験も強味でしょう。また、楽観的で、明るく前向きな性格もこの仕事に向いているのではないかと思います。

 「カリスマ・カウンセラー」と呼び始めたのは学生たちでした。別に特別すごいわけでも何でもない。ただ、「池澤のところに行けば分かってもらえる、聞いてもらえる、一緒に泣いてもらえる、叱ってもらえる。。。。。」という事で学生たちから頼りにされていたのだと思います。また、生来の外交的な性格から幅広いネットワークを持っていて、学生にとって有利になるような特別な情報をいただくことも多くありました。マッチングはカウンセラーの仕事ではありませんが、そうしたことも効を奏し、当時いた大学の就職力ランキングを36位から5位までに押し上げることができました。

最後に皆さんへのメッセージ

・「計画された偶発性」という考え方

 スタンフォード大学のクランボルツ教授が発表した「計画された偶発性」(Planned Happenstance )というキャリア理論が今の主流になっています。個人のキャリアは偶然に起きる予期せぬできごとによって決定される、その偶発的なできごとを、主体性や努力によって最大限に活用し力に変えることが出来るという理論です。けれども、偶然を漫然と待つだけではだめです。偶然を呼び寄せる努力をしなければいけません。その仕掛けとも言えるものが、好奇心、持久力、柔軟性、楽観性、リスクをとる勇気、の5つの要素です。

・セレンディピティという考え方

 計画された偶発性(Planned Happenstance)に似たコンセプトですが、セレンディピティ(Serendipity)というのは偶然の幸運に出会う能力のことを言います。それを捕まえるには、常日頃、自分は何がやりたいのかを考えておく必要があります。私の高校の先輩でもあるノーベル賞受賞者の小柴昌俊さんは次のように言っています。「確かに私たちは幸運だった。でも幸運はみんなのところに同じように降り注ぐ。それを捕まえるかどうかは、ちゃんと準備をしていたかいなかったのかの差ではないか。」

・弾むマグカップになろう

 ハーバード大学のライニング教授が、「ハーバードからの贈り物」という本の中でこう言っています。「トラックを何週もする長い競技にも似た人生、スタート直後に先頭を走っている者がそのまま先頭を走り続けられるとは限りません。往々にして後ろの方を走っていた者が、後半ぐんぐんとペースを上げて来ることが多い。」そんな人生のトラックで重要なのは、失望から立ち直る能力、たとえ失望や苦難に直面してもめげずに進んでいく力だそうです。街道沿いの簡易食堂の頑丈なマグカップのように、落としても割れずに、床にぶつかって弾む強さです。見た目はどんなに美しくても、床に落ちれば割れてしまう繊細なカップではないのです。

・ギリシャの作家、カザンツアキスの言葉

 最後に、私の大好きな言葉を皆さんにお贈りしたいと思います。本当に落ち込んだ時に、私はこの言葉を自分に言い聞かせて勇気を奮い起こしています。ギリシャの作家、カザンツァキスの言葉で、クレタ島の丘の上に眠る彼のお墓にも刻まれています。恐れず、自分らしくないことは望まず、ある種、恬淡と、自由に生きていくことができたらと願っています。
「自分は何も恐れない。自分は何も望まない。だって、自由人なのだから。」

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