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2007年4月の記事

2007年4月 7日 (土)

第11回 LOHASプロデューサー 大和田順子さん

今、求められるロハス的な視点
ライフミッションを仕事に選んで
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基礎的な価値観を作った中高時代

今回、この講演にあたり、自分のキャリアを振り返ってみたところ、大学を卒業し就職して以来、20数年間会社員をしてきたが、会社は何回か変わった。中高はプロテスタントの私立一貫校の女子校で、「男、女に関わらず、一人の人間として自立せよ」、ということを教える社会派の学校で、ユニークな先生が多く、ボランティアをしたり、外部の人たちが講義にいらしたり、面白い6年間を送った。この頃の経験が多分、私の基礎的な価値観を作ったと思う。女子校なので、自分たちでなんでもやるような校風で、高校では議会の議長を務めたり、クラブでは教育研究会や地質クラブに入ったり、けっこう硬派だった。ところが、受験勉強はしなかったので。推薦で大学に入った。大学は学習院の哲学科で、浩宮様と一緒にオーケストラでビオラを弾いていたりしていた。中高のリベラルな校風と違い、この大学は保守的で、そういう意味では違和感のある4年間だったけれど、音楽を聴き、絵を見てすごした楽しい期間でもあった。

常にチャンスを掴もうとチャレンジした20代
いざ就職といっても、均等法以前で、女性にはあまり職がなかった。東急百貨店の人事部にいた大学の先輩が、大卒一期生を採用するので説明会に来ないかと言ってくれ、遊びに行ってそのまま東急に決めた。当時は、大企業に入って出世したかったし、百貨店なので女性も活躍できるだろうということと、定年まで勤められるという2点が決め手となった。

東急では懸賞論文や企画募集制度があり、そういうものには毎回チャレンジした。とくに行きたかったのは欧米流通業視察で、3回エントリーして、3回目でようやく選ばれアメリカに行った。今思えば、目立ちたいというよりも、当時は企画・広報・宣伝に憧れていたのだと思う。東急文化村ができると聞いたときには、頼まれもしないのに提案書を書いて、文化村の責任者に会いに行き、ぜひ文化村の仕事がしたいと、勝手に社内で自己申告して歩いていた。残念ながら文化村には採用されなかったが。

入社して最初は本社の企画部に配属された。3年半たって、急に、東横紳士セーター売り場に異動になった。今は違うと思うが、当時は、男性は売り場の品揃えや企画、女性は販売というように男女の役割分担があった。紳士セーター売り場でに行って、毎日のようにレジを打ったり、バーゲンの商品を並べたり、段ボール箱を運んだりしていた。そんなことをしていると、こんなことでいいのかなあと思い始め、そうするとまた人事に行って、私は留学したいという話をした。そうしたら、東急総合研究所ができるので、そこの研究員はどうだろうということを言われ、そこに出向することになった。

結婚・出産、でも昇給・昇格に遅れを取りたくない
東急総研ではグループ企業からメンバーが出向してきた。私の研究テーマは、高齢化と情報化。そして沿線地域住民の意識調査、新規事業の事前調査などを行った。一方で自主研究テーマを決めてリサーチしていた。そのころ、プライベートでは結婚し出産をした。男女差がないといわれて入った百貨店では実は2年目から、男女で差がついていた。そのことで人事に文句を言ったりしていたが、ここで産休を取るとまた、昇給が遅れると思った。それを防ぐには何をするべきか考え、資格をとることにした。産休中というのは、実はけっこう時間があるので受験勉強して消費生活アドバイザーの資格を取った。

自主プロジェクトでは、「百貨店人のためのエコロジーハンドブック」というものを作った。これは、環境教育のツールの様なもので、百貨店で扱っている商品が環境問題とどのようなかかわりがあるのか説明した冊子である。消費生活アドバイザーの資格をもっている百貨店の女性有志数名に声をかけ、プロジェクトチームを作り、自主的にハンドブックを作った。、出来上がってみると、会社でも環境委員会が出来た頃だったので、早速印刷して全社員に配ってくれた。業界初ということや、女性たちが自主的に作ったということで、けっこうメディアにも取り上げられた。

また、当時は企業市民とかフィランソロピー、メセナなどがキーワードの時代であったので、そのテーマも研究していた。いろんな企業を調べているうちに英国のザ・ボディショップという会社を知った。収益をあげることと社会を変革することを両輪としている、こんなすごい会社があるならそんな所で働いてみたいものだと思っていた。そんな時に木全ミツさんという労働省出身で元国連公使をされた方が初代社長になることになったが、ある講演会で木全さんとお目にかかることができた。それがきっかけで、一年半後、環境担当を探しているというお話があって、ボディショップに転職することにした。

自己ブランド化の始まり
ひるがえって思うと、この頃から、自分のブランド化を無意識に実践し始めていたように思う。研究所は自由であったので、人脈を広げたり、NGOの研究会に参加したり、プライベートで欧米の環境保護団体に視察に行ったりすることができた。相変わらず懸賞論文好きが続いていたが、なんとか日本一にを取りたいと思っていた。消費生活アドバイザー関係の人が多くエントリーするある懸賞論文に応募し、ついに経済企画庁長官賞を受賞することができた。それを知り合いの新聞記者に記事にしてもらった。このように自らPR材料を作り、記事のクリッピングなど、自分をPRするツールをいつも持ち歩いていた。たとえば、木全さんにお会いしたときにもそういうものをお渡しした。印象的だったと後日聞いた。

自己実現の30代
30歳代はほとんどがボディショップ時代で、そこで7年間を過ごした。この時代は自己実現の時代だったと思う。ボディショップは社会問題や環境問題などに取り組む世界最先端のCSR企業だったので、世界中の動向が入ってきた。動物保護、人権、環境、CSRなどの取り組みを行った。たとえば人権のキャンペーンをするときは、NGOのアムネスティ・インターナショナルと協働した。今では当たり前の手法であるが、当時は企業とNGOのコラボレーションはめずらしかった。。

会社は小さかったので、自分のしたい仕事は全部自分の部署にもってくることができた。コミュニケーション部を設立し、広報、カストマー・サービス、販売促進など、そのようにして経験した。また海外出張も初めて経験し、毎年数回海外での会議に参加した。実は英語は苦手でサバイバル・イングリッシュでしかなかったが。

7年いると、大体仕事も一巡してくるが、丁度、木全さんが定年になったので、どうしようかなと思っていた時に、イースクエアという環境コンサルティングの会社が立ち上がるというので、それに参加することにした。イーコマースも行うベンチャー企業の創業メンバーということで張り切った。

ベンチャーに飛び込んだ40代前半
イースクエアの社長はデンマーク人のピーター・ピーターゼンさんという人で、彼を始め、すばらしいメンバー、すばらしい企業、すばらしいコンセプトに出会ったのはこの2年間だった。デンマークと日本では、こんなに考え方が違うのかと驚いた。

ただし、ベンチャーに憧れて転職したものの、現実は自分の給料は自分で稼ぎ出さなくてはならないというのが現実で、2、3ヶ月先の給料は、今営業して仕事にしないと入ってこないとい。大変ではあったが、当たり前の厳しい現実を体験しすることができた。

この時代に出会った人は、イースクエアの会長でもある木内孝さん、今はなくなってしまったが、エコ商品だけを集めた伝説のeコマース、「エコシティ21.com」の参加企業の生活の木、池内タオル、メイドインアース、マヴィ、ピープルツリー、アミタなど100社を超える中小企業の経営者の方々、そして若いスタッフの人たちだった。

また、LOHAS(ロハス)とカーボン・ニュートラルというコンセプトに出会ったのもこの時期だ。イースクエアの社外取締役にアメリカ人がいて、アメリカではカルチュアル・クリエーティブという新しい価値観を持つ人たちが増えていて、その人たちの会議があるというので、これは絶対出席しなくてはとコロラドに行った。それが2002年の6回目のロハスの会議である。また、カーボン・ニュートラルというのは、個人や企業が排出したCO2をオフセットするために植林をする活動で、イギリスのフューチャーフォレスト(現在はザ・カーボン・ニュートラル・カンパニー)が始めた事業。このフューチャーフォレストのカーボン・ニュートラル・プログラムを日本で最初に導入した会社がホメオスタイルだった。

40代中盤で、売り上げ&集客に執念
ホメオスタイルは、ソフトバンク・インベストメントの北尾孝吉さんが会長で出資をしている会社で、株式公開を目指しているという。美容の会社で、全国で会員制のサロンを展開し、総合美顔機、化粧品、婦人服などを扱っている。イースクエアとして、この会社のカーボンニュートラル導入の広報業務を受託したが、マーケティングの責任者が必要というので、株式公開も経験してみたいと思い転職した。

ここでは、ボディショップや、イースクエアとは180度違う価値感を目の当たりにした。と言ってもビジネスの世界の普通の価値感ではあるだろう。そして、遅ればせながら40代にして初めて売り上げを上げることに執念をもって取り組んだ。マーケティング業務の責任者なので、店舗や新業態開発、DRM、 通販、ネットなどを駆使して、ひたすら集客と売り上げ促進に注力した4年間だった。

私にとっての宝は何かと自問
ところで私は八丈島に縁があり、10年間ほど、毎年通っていたが、毎夏の1週間は私にとっては大切な時だった。通っているうちに、ここの環境の変化を肌で感じていた。八丈島には家があり、2005年の夏、ここで過ごしていた時に、たまたま本棚に「アルケミスト」という弟の本が置いてあった。子供向けの本だろうと思ったものの、どうしても気になるので、読んでみた。それは羊飼いの少年が自分の宝物探しの旅に出て、結局は自分の裏庭でそれを発見するという話である。これを読んで、私にとっての宝物は何だろうと考えた。それは足元にあるに違いない。そう、それはロハスだ、私にとって使命にすべきことは、環境問題や社会問題に取り組むことなのだと思いいたった。

そこで、早速、自分のホームページを作って、今まで書いたものを載せ、メルマガを発行した。誰か見つけてくれるかも知れないと思いつつ。そうしたら講談社からロハスの本を作りませんかと相談があり、「日本をロハスに変える30の方法」を書くことになった。一人で書くと大変なので、知人と3人で書き、去年の1月に出版した。おかげさまで1万人を超える方々に読んでいただいた。世の中に10万部とかベストセラーは沢山あるが、無名の著者で1万部を超えるのは上出来なんだそうだ。

40代後半、ライフミッションを形にする
そして昨年の4月からついにフリーになった。イースクエア時代もベンチャーとは言え、給料は出ていたわけだから、フリーになったら、それは自分で稼ぎ出さなくてはならないということを初めて体験した。それまでは転職先を決めてから、会社を辞めていたが、今回は決めずに辞めた。そしてロハスに集中した。まずは4月にアメリカで開かれているロハス会議(第10回)に行った。幸い昨年は講演会や執筆の依頼が多かった。また、ロハスというコンセプトのライフサイクル(市場導入から成長期、成熟期など)のプロセスを考えたり、、自分自身を業界の中でどうポジショニングするか、そしてロハスをどのように普及させるか、いろいろと考えながらの一年だった。

フリーを一年体験しての感想。まずは初年度は何とかサバイバルした。でも講演のようなものは、依頼が来るまで分からない。定期的な収入を得るには、企業のコンサルティングだと思い、コンサルタントの友人のアドバイスを受け、複数の企業のアドバイス業務を行うようになった。事業はやるべきことが見えたらおいおい考えようと思っている。

この一年間は再会の日々でもあった。東急総合研、ボディショップ、イースクエア時代に接点のあった方々や企業が、それぞれ新しいステージにいて、また、一緒に活動することができた。また、ロハスをテーマにするなら、利己的であったり自分の事ばかり考えていたらいけないよと知人からアドバイスされた。それまでは自己実現をキーワードにしてきたが、そうだ、自分でなく、利他、社会のため、つまりは社会実現をこれからは念頭に置かなければと思った。要するに持続可能な社会を実現するために貢献することを仕事にしようと決めたのだ。

そして最初にロハスのビジネス系の本を書いたので、次にはロハスの社会化を考えた。ややもすると商業主義に偏るきらいのあるコンセプトなので、社会化するにはどうしようかと考え、小中学校の先生向けに本を作ることにした。それで4人で「ロハスの教科書」を出版することにした。一方、ロハスでビジネス・起業したいという方々から相談を受けるので、そういう人のために、ロハスビジネスの始め方についても本を書く予定だ。また、中小企業でロハスをビジネスに取り入れたいという人が多いので「ロハス・ビジネス・アライアンス」という組織を立ち上げようと思っている。

ロハスについて(スライドによる説明)
最近の問題意識は気候変動に関するもので、それは私たちに待ったなしの行動を要求している。ロハスを推進してきて思うことだが、日本は消費が偏重されている社会だ。ロハスはヘルス・アンド・サステナビリティのライフスタイルで、意訳をすると身体と心と社会と地球の健康が重なっている部分がロハスだと思っている。

ロハスのコンセプトができて10年になる。ロハスを作った人たちはコロラド州、ボールダーに住んでいた元ヒッピーの人たちで、オーガニックな農産物の振興やナチュラルビジネスに関わっており、それを大きくすることを望んでいた。それをしないと地球はダメになると考えていたのである。彼らと金融業界のお見合いのようなものが最初の会議で当時はロハス会議とは呼ばれていなかった。一方、社会学者のポール・レイが、カルチュアル・クリエーティブと名づけた新しい価値観を持った人たちが約5000万人いると発表した。ロハスの市場規模は大きい。消費者調査なども行われ、すべてのデータが出揃った2002年の会議が、私が初めて参加した回だった。その会議の様子をレポートし、友人の記者に頼んで日経に掲載されたのが、日本でロハスを紹介した最初の記事となった。

去年には10回目のロハス会議があったが、620人の参加者の内、50人が日本人だった。去年一年のロハスの活動を見ると、ロハスワールドスプリングという消費者イベントが日本であった。また、ピーターが「ロハスに暮らす」を出版し、イースクエアがロハスマーケティング・イニシアティブという大企業中心の研究会を立ち上げ、「ソトコト」がロハスデザイン大賞を設け、中央公論から「リクウ」という雑誌が出たりした。

今年はロハスのS(サステナビリティ)の取り組みが加速されると思われる。1月には「不都合な真実」が評判を呼び、3月には「オルタナ」という登録すると無料のビジネス情報誌が出る。ロハスを使わずにロハスを表現したいということで「オルタナ」という名になった。「ナチュラルスタイル」という雑誌も創刊され、私の関わっている「ロハスの教科書」の発行や、中小企業向けの団体の立ち上げもある予定だ。その他、カーボン・ニュートラルのビジネスが加速すると思われる。

ロハスの5つのカテゴリー
ロハスには5つのマーケットがある。
1つ目の分野は、ヘルシーライフスタイルで、その中身はオーガニック、マクロビオティック、天然素材を使ったヘルスケアなど。ロハスに欠かせないのは、世界的な視野である。自分の生活を基点にしながら、地球規模な視野を持つのが大切。日本は食糧自給率が非常に低い。このことについてもっと関心を寄せるべきだと思う。
2つ目の分野は、住宅、家庭用品、余暇のカテゴリーになる。日本の木材自給率は昭和35年の90%から今は20%に落ちている。
3つ目の分野はオルタナティブヘルスケア。西洋医療と民間療法を統合した統合医療が重要になるのではないかという視点である。
4つ目は自己開発の分野で、ヨガなどがこの分野に入る。潜在意識を活性化して、クリエーティブな能力を高めることを目指している。
5つ目は持続可能な経済である。石油もピークを迎えているので、これからどうするかが問われている。建築も環境を配慮すべき。車は所有から共有の時代へ、など。

ロハスの視点は、自分の生活から世界的な視野を持とう、そして日々の暮らしからできることから始めようというものだ。働き方やビジネスのありかたを見直し、思いやりや精神性を重要視して、社会全体を持続可能なものにしようというものだ。

※ロハス度チェックの実施
(参加者対象にロハス度をチェックするアンケート実施)

※ロハス企業例の紹介
(省略)

「好き」と「強み」にフォーカスしてきた20数年間
私のキャリアを振り返ってみると、自分の好きなこと、得意なことにフォーカスしてきたと思う。ホームランは打つことはなかったが、内野安打を重ねてきた。このごろ、よく出会いの意味を考える。今日この講演会で皆さまにお会いしたのもきっと意味があるのに違いない。最近座右の銘は何かと聞かれることがあるので、「世の中を変えるのは私たち、一人ひとり」と言っている。一人ひとりが変れば、世の中が変るわけだから。

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