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2007年3月の記事

2007年3月31日 (土)

第10回 ジャーナリスト・NPO主宰 ルーシー・クラフト

英語を磨いて世界を拓くII 

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ウォーターゲート事件に触発され、ジャーナリズムを目指す
高校時代から活字が大好きだった。アメリカで70年代を象徴する一大事件はウォーターゲート事件だった。この事件は当時のニクソン大統領の不正をジャーナリストが発見・追及した事件で、ニクソン大統領を辞任にまで追い込んだ。この事件のおかげで若い人の中でジャーナリストに対する興味が強く出てきた。私もその一人。一方、中東では少しずつイスラエルとその周辺国で摩擦が出てきていた。

私が育ったのはワシントンDCでここはニュースのメッカなので、ここを目指すジャーナリストはとても多い。という事はライバルも多い訳で、狭き門での競争を避け、国際的な場でのジャーナリストを目指そうと思い、大学では中東のことを勉強した。ユダヤ人としてイスラエルのこと深い関心もあった。

母の一言で、イスラエルに行くはずが、日本で過ごすことに
本当はイスラエルに行こうと思い、準備をしていたが、母は中東の紛争を心配していた。母は日本人なのだけど、「おばあちゃんの所に遊びに行けば」という母の一言で、中東に行く途中に日本で少し過ごそうと思い来日した。英語だけで日本で生活するのは不可能だと思ったので、来る前に9ヶ月集中して日本語を学んでから日本に来た。ほんの少しのつもりが、いつの間にか夫と出あって、1982年の来日以来、20年以上、日本に住んでいる。

最初は仕事がなく、友人が防衛関係の仕事をしていたので、その関係でDefense Weekという所で、働くことになった。ある時シンガポールでの武器の展示会を取材に行き、「ライフルを撃ってみたら」と言われ、ライフルを手にしたが、これは人を殺すものだという事を実感し、防衛関係の仕事は向いていないと思いこの仕事から離れた。

活字からテレビの世界へ
私は活字からジャーナリズムに入っていったので、ラジオやテレビのことは何も知らなかったし、自分でできるとは思わなかった。ある時、プレスクラブでテレビの仕事にオーディションで人を募集している広告を見つけ、受けに行った。ピンからキリまでいろいろな人が来ていたが、ほとんどは素人で、プロとしてオーディションに合格したのは私を含めて3人だった。84年くらいから、フリーとしてちゃんとしたメディアで雇われるようになったが、88年くらいに、自分の能力の限界を感じ、勉強しなおしたいと思い、アメリカのコロンビア大学の国際関係学部に入った。日本人も多かった。日本人の大部分が日本のことを勉強しているのを見て、不思議だった。なぜ、日本のことをアメリカで勉強するのかと聞いたら、日本ではこういう事を学ぶ場がないという事だった。

89年頃から始まる日本パッシング
バブルが弾ける前までは、日本の成功に学びたいということで、日本に関する記事はいつもトップニュースでその需要は高かった。でもそれは89年くらいまでで、バブルがはじけ、多くの米国メディアは日本から撤退して行った。日本を素通りして、焦点は中国に移っていき、日本パッシングが始まった。アメリカから日本をカバーしているメディアは本当に少なくなってしまった。私がカバーできる分野は2つ。一つはロボットや携帯などの先端技術の分野。もう一つはちょっと変った話。たとえば、オタクの話とか大食いの競争の話とか。このように限られている分野のほかは、アメリカのメディアは日本に関心がなくなってしまった。その背景にはアメリカのメディアが大混乱していることが挙げられる。インターネットの普及によって、メディアをめぐる環境は様変わりしてしまったのだ。さらに海外のニュースの枠組みが主に中東のニュースで占められることになってしまった。海外枠の内、8割、9割が中東で、その他は主に中国関連の記事。日本にはほんのわずかな予算しか当てられていないのが現状だ。

環境問題のNGOを立ち上げる
90年に日本に帰り、公共放送などテレビの仕事をするようになった。出産もした。それでそれまでは、自分の事や家族のことに集中して生きてきたけど、半分くらいは人のことに時間を使おうと思い始めていた。たまたま自然関係の雑誌の取材でペレストロイカ以後のロシアに目を向けようという事で、北方四島の取材で国後島に行った。科学者の中にはロシアには他では消滅した自然が残っているのではないかと考える人がいて、それを調べるのが仕事だった。98年9月だったが、東京から、函館、サハリン経由で国後に行ったのだが、サハリンでは本当にひどい目に合った。それというのもペレストロイカ後のロシアはもう経済がめちゃめちゃで、函館からのロシアの飛行機はぼろぼろ。ホテルもぼろぼろ。東京は暑かったので、軽装でいったのだが、ひどく寒くて着るものを買おうにも売っていない。電気もつかず、お風呂もない。レストランも閉鎖でスープもコーヒーもない。次の朝、なんとか無事に国後にたどり着き、無事に2週間くらい過ごした。国後の自然はすばらしくこのすばらしい所を誰も知らないのは残念だと思い、帰って北方四島の環境保護のNPOを作った。

私のロールモデル、母のこと
母は浅草生まれの江戸っ子で、1952年に日本を離れた。アメリカ人である父とは、日本でランゲージ交換(片方が日本語を教え、片方が英語を教えるシステム)を通じて出会い、デートを始めたとのこと。母は津田塾出で、仕事を持ちたかったけど、日本では見つからず、アメリカに行こうと考え、アメリカに帰国していた父に相談したら、力になるよ、という事でアメリカに渡った。母はいろいろな大学で勉強し、最終的にはペンシルバニア大学を卒業して働き始めた。戦争のことは、あまり話したがらなかったけれど、若いときは苦労したらしい。もともと医者になりたかったらしく、アメリカで生物学を専攻し、その専門分野で翻訳・通訳をするようになった。アメリカの厚生省のような所で世界中から物すごい量のデータを集めたところで仕事をしていた。母は今、77歳だが、自分の会社を10年前に作って、翻訳や通訳のほか、若い人のトレーニングをしたりして忙しく働いている。母は私のロールモデルで、私もあのようにずっと働いていきたいと思っている。

母はユダヤ人のファミリーの中で苦労した。日本人の女性がアメリカ人(ユダヤ人)と結婚してその生活を書いた本があるが(注:「過越しの祭り」 作者 米谷ふみ子)、母はそれを読んで、自分の生活とよく似ていると言っていた。つまりユダヤ人の社会はみなプライドが高く、男の人が威張っている社会なので、日本からの嫁は大変だったようだ。でも父は10年くらい前に退職してから、母のことをすごく頼るようになった。今は、役割が逆になって、父が母を頼っているような状況になり、それは母の誇りとなっている。

ビデオ上映(ルーシーの取材ビデオを紹介。)

日本からのトピック
今はCBSと契約している。あちらから取材の指示があることもあるが、主に私からストーリーを提示することが多い。CBSがOKすると、取材するという形を取っている。どのようなトピックかというと、たとえば、日本人の着物離れの話。また、日本人にとっては当たり前のことかもしれないが、高齢グッズ(おばあちゃんのおもちゃや高齢者用のテニスラケット)のこととか、渋谷のギャル現象とか、名古屋でエリッククラプトンなど有名な人のギターを作っているに手作りのギター工場の話とか。この間は札幌の人の会社を取材した。それは、息子・娘の相手を見つけるために、父親や母親が「デート」をする場を提供する会社だった。子どもの相手を見つけるために、150人くらいがホテルに集まっていた。アメリカにはスピード・デーティングというのがあって、男性と女性が長いテーブルの両側に座り、流れ作業的に5分くらいずつ喋りながら、相手を探していくという方法があるが、親が出てきて子どものために相手の親とデートをするのはアメリカでは想像できない。ある母親が言うのは日本の社会のコンビニ化・便利化が結婚しない人たちを生んでいるということだ。母親達は元気な人だったら嫁は誰でも良いというような絶望的な話が多い。

働く人へのメッセージ
まず、英語についてお話したい。英語や外国語を覚えるのは大変だと思うけれど、残念ながら、世界で一番使われている言葉は「ブロークンイングリッシュ」です。だとしたら、ブロークンでいいので、遠慮なく、使って欲しい。どんなに楽しい世界が開けるか、きっと想像できないくらいだと思う。この間、インドに行ったが、インドの人は独特の発音をするけれど、レストランや街中で楽しい会話がたくさんできた。間違えても誰も軽蔑はしないし、恥ずかしいこともない。英語国民から見ると、一生懸命話をしてくれる人がいたらそれはとても嬉しいことである。

子どもの気持ちを忘れないで
典型的なアメリカ人のように聞こえるが、私は50歳になってもまだまだ大人になりたくない、子どもの意識でいたいと思っている。いつまでたっても若々しい子どものようなマインドを持っていてもいいのではないかと思う。日本人は自分の事を美しく磨くのはすごいと思うけれど、外側だけでなく中身、つまり、自分の持っている能力も磨いて欲しい。ここでよいと満足しないで欲しい。私もジャーナリズムの次には何をしようかといつも考えている。

育児とキャリア
外国人の目から見れば、日本は育児に関して天国である。保育園のシステムがきちんとしている。娘と息子の場合は8年くらい、保育園のお世話になった。比較的安い費用で、信頼できる保母さんにきちんと見てもらえる。こういうシステムは他の国にない。他の国と比べたらすごく良くできている。それから夫も助けてくれたし、私は自宅で仕事をできることもあったので、なんとか育児をしながら仕事ができた。アメリカでも保育園はあるが非常に高い。でもベビーシッターの制度があるので、それが助けになっている。ベビーシッターは学生のアルバイトとして良い制度だと思う。もちろん問題シッターもいることはいるが、学生も責任感を持つことができるようになるという面もある。

女性と仕事
日本では子どもがいるのに働いて大丈夫?というようなプレッシャーもあったけれど、私たちから見れば、母親が働くのは当たり前。柳澤厚生労働大臣のような発言は考えられない。日本人だけではなくて、男性は母親の像を求めている人が多い。けれども世の中は逆戻りできない。だから昔の母親像を妻に求められてもそれはナンセンス。男の人は目を覚まして欲しい。

リーダーシップとフォロワーシップについて
日経ベンチャーに毎週コラムを書いている。今、リーダーシップよりもフォロワーシップの方が面白いと思う。フォロワーシップは新しい言葉で知らない人も多いが、今アメリカではちょっとしたブームになっている。周りの人をどのように応援できるかがフォロワーシップで、今、グーグルとかゴア社とか、先端を行く会社がフォロワーシップの研究をしている。権力を与えると偉そうになって、リスクが増す。それは企業にとってはリスクに他ならない。ゴア社は、肩書きは与えずに、プロジェクトごとにリーダーを決めている。能力のある人をキープするためには、能力ある人にとって、居やすい場所を作る必要がある。これは大きな問題で、イノベーティブな会社は芯(コア)を作らない所もある。たとえばある会社がどうしても欲しい人材がいたら、その人材が望む組織を作りましょうという会社もある。逆にダメな会社は、偉そうな肩書きが横行し、政治的なことが先行する会社である。
ところで、私は勝手に社員のタイプを4つに分けた。

・やりがい君・・・ポジティブな思考をする人で責任感も強い。
・トド君・・・頭が悪いわけではないが、受身の人。言われなければ何もしない
・Yes君・・・表面的には「はいはい」といいながら結果を出せない
・No君・・・ネガティブな人で周りの環境に毒を与える人。残念なのは頭が本来は頭が良いのにも関わらず、モチベーションを失ってしまっている。

どの企業も「やりがい君」を求めている。フォロワーシップのチャレンジはどのようにトド君やYes君をやりがい君に変えていくかという事。

フォロワーシップに関するコラムは以下に。
http://nvc.nikkeibp.co.jp/free/COLUMN/20061121/107533/

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