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2007年2月の記事

2007年2月18日 (日)

第8回 ㈱ハウ 代表取締役 大隈和子さん

幸運は姿を変えてやって来る
ピンチをチャンスに変えるには

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愛国心が芽生えた外国での子ども時代
親の仕事の関係で小学校は日本でしたが、その後ずっと海外で暮らしました。最初に行ったのは南米のウルグアイです。首都、モンテビデオ、南米のスイスと呼ばれているところです。そこで6年生活しました。いきなりスペイン語圏に投げ込まれて、言葉も分からず、一年落として、聴講生として始めました。1953年で、まだ日本人はほとんどいず、動物園のパンダのごとく、珍しがられました。道を歩いていても「チーナ(中国人)」とよばれ、「ノー、ハポネス」と言い返したのが、始めて使った外国語です。学校でも算数は分かるけど、他は全然分からない。悔しくなって、大和魂が芽生え、高校の三年間はめちゃくちゃ勉強しました。多分、一生の中で一番勉強したのはこの時です。この学校では、生徒と先生の人気投票があるのですが、私は必ず私は選ばれていました。それでふっと、もう勉強は言いやと言う気持ちになってしまったのですが。
それから、両親はアフリカのガーナに行きました。それで子供達はスイスに行きました。この時代は本当に楽しい時代でした。スイスでは、インテリアやウィンドウディスプレイを勉強しましたが、夏は水上スキー、冬はスキーに熱中しました。無責任に楽しんだ2年間でした。その後、両親はニューヨークに移り、私もそこでインテリアの学校に入りました。

22歳で結婚。主婦業だけで満足できない自分を発見
ここまで、本当に楽しい人生でしたが、ここから下り坂が始まりました。ある日本の商社マンに会ってしまったのです。それまではボーイフレンドはいつも外国人でしたので、日本人が新鮮に見えたのです。1960年代でしたので、日本人も女性も珍しかったらしく、いい気になって遊んでいたら、一回目の夫になる男性と出会ってしまったのです。彼は先に帰国したのですが、ラブコール攻勢があって、22歳の時、日本に帰って結婚してしまいました。キャリア志向があったので、仕事をしたいと思ったのですが「嫁に仕事をさせるなんてみっともない、恥ずかしい」という事で、スペイン語の翻訳くらいしかさせてもらえません。その内、東京オリンピックがあり、そのコンパニオンになったりしました。今の若い人は東京オリンピックなど知らないでしょうね。その後、夫が南米に赴任することになり、私は若い支店長夫人ということで付いて行きました。ところが、ゴルフ、ブリッジくらいしかすることがなく、暇をもてあましボケちゃうのです。その内、夫と価値感が違うことに気が付き、子どもを連れて日本に帰ってしまいました。この辺は話が長くならないようにはしょります。

さて、帰国して、いざこれからという時に、また、次の男に捕まってしまったのです。私は急に主人の連れ子と合わせて5人の子持ちになってしまいました。一生懸命努力したのですが、連れ子に辛く当たられて大変な思いをしました。夫は感謝してくれるどころか、「お前が悪いんだ」と言い、ドメスティックバイオレンスもあり、夜逃げのごとく、車検切れのバンで夫の所から逃げ出し、その後、離婚してもらうために、家庭裁判所で訴訟が延々と続きました。

離婚。シングルマザーとして生きていくことに。そして始めての就職活動
訴訟の最中から、職探しを始めました。経済的に自立しないとやっていけないので。でも私は日本の学校も出ていないし、大した学校も出ていません。パーフェクトにできる言葉は何もないし、セクレタリーになるには日本語が問題でした。私は33歳になっていたのですが、新聞ではどの広告も25歳までと書いてあります。そこで英字新聞で職を探し、見つけたのがフランスの化粧品会社、C社の美容部長の職でした。年齢は35~45歳までという事でした。美容部長という仕事は何をするのか分かりませんでしたが、自分も化粧品を使うからどうにかなるだろうという事で。「人を使うこと」も要件でした。もちろん、経験はないのですが、「外国で言葉があまり自由でない親の代わりに人を仕切っていた」と言って、切り抜けました。面接で「いくら欲しい?」と聞かれて、相場も知らないままに、「親子3人暮らすには、15万くらい必要です」と答えたのですが、後で、分かったことは、「15万円なら安いし、どうせ、長続きしないだろう、まあ、やらせてみよう」と採用されたようです。同じような地位の人は35万の給料で、私が仕切る人達も15万位の給料でしたので、私の給料はとても安かったのです。その後、給料を上げてもらうのに苦労しました。
美容部長は本社でトレーニングを受けて、同じ教育を日本で行うのが主な仕事です。また、イメージを維持するのも大切な仕事でした。私もそうですが、女性は大体が真面目です。本社の指示を真面目に取って、その通り日本でも行おうとしたのですが、以前からいる男性社員には「フランス式のようなきれいごとでは売れない、イメージなんて二の次だ」というような考えで、私のやり方は邪魔臭かったようです。「あなたが来たから、仕事が面倒くさくなったんだよ」と文句を言われました。自分が真面目であればあるほど、他の人には面倒臭いことになるという図式で、この辺から私へのバッシングが始まりました。

ところ変っても続くバッシング
その内、アメリカの化粧品の会社、E社からオファーがありました。横滑りはつまらないし、多少給料が上がっても割に合わないと思っていましたが、新しく立ち上げるE社のCブランド商品でマーケティングの仕事のオファーがあり、マーケティングなら面白そうだと思い受けました。マーケティング・アンド・エデュケーションディレクターというのがタイトルでした。この時は交渉の仕方も、身に付いていたので、要求をきちんとすることができました。そして、新しいブランドの立ち上げでしたのでとても楽しい仕事でした。

その内、アメリカ本社の上司が、私のことを褒めてくれるようになったのですが、本来なら、日本の上司にとっては嬉しいはずなのに、アメリカでの評価が、上司の嫉妬の原因となってしまったのです。「自分の立場を脅かす生意気なやつ」と取られたのです。「NYに出張しなければならない」と言うと、嫌な顔して、「日帰りで行って来い」、「何とか2,3日、行かせてください」、「ならぬ、帰って来い」というような調子で、アメリカサイドの人も驚いましたが、ほんの1泊で帰ってきました。そうこうしているうちに、マーケティング部長に男性を採用し、私はラインから外されました。外から入ってきたその男の人は、ゴマスリだけは上手でしたが、何もできず、私には本部長付きという変なタイトルを与えて、その無能な男を補佐することになりました。給料は変わりませんでしたが、これは明らかに降格人事です。全体会議も入れてくれないので情報過疎地帯に置かれました。そして広報に転部することになったのです。後で振り返って見るとこれは実にラッキーなことでした。というのも広報の職では、社外のエディター、ライターなど、違う世界の人たちに会うことができたからです。明らかに社内の人たちよりレベルが高い人たちで、そういう人たちと仕事をするのはとても楽しかった。その頃、一緒に仕事をし、遊んだ人たちが、後々、偉くなって、いろいろな面で私を助けてくれました。振り返れば、あのバッシングは私にとって、本当にラッキーなことでした。

機運にのって、「チャンスだ、やれ!」とキャリア新展開
そして女性の視点で勝ち取ったクライアント

5年も同じことをしていると、ルーティンになって来ます。違うことしたいなあ、と思った時にはもう、アンテナを立てていたのですよね。いろいろと話はありましたが、横滑りはあまり面白くなかったので乗りませんでした。その頃は、バブルの時代で、女性を立てて、マーケティング会社を作ろうという機運がありました。広告代理店のD企画も同じことを考えて、女性のPR会社を作ろうということで、女性を募集したら、優秀な人が大勢集まりました。そこで、束ねる人がいるというので、私にお声がかかったのです。女ばかり15人、資本金8000万で、D企画の子会社ができました。ハウです。実はその時、受けるか受けないかいろいろ悩んで、友達に相談しました。男友達は、全員、「やめろ。なぜ、苦労の中に飛び込むの? 日本の会社は大変だ。」と皆反対。女友達は全員、「チャンス、やれ!」と背中を押してくれました。多少利口になっていたから、「クライアント獲得の営業はD企画でやってください」という取り決めをしましたが、きちんとしたシステムを作っていなかったので、上手く行きませんでした。D企画としてみれば、社内にマーケティングセクションがあるのに、何もお金を払って、子会社のハウに頼むことはなかったのです。

その内、モナコ政府が観光局を代行してくれる代理店を探していて、コンペの話がD企画を通じて来ました。実は私はコンペというと血が沸くのです。いろいろ考えて企画書を作りモナコを勝ち取りました。モナコといえば、地中海の小国で安全、ならば、これからOL
の人たちが自分へのご褒美として行くのにふさわしいデスティネーションではないか、という視点がモナコの期待に合っていた様です。ちなみに他社のプレゼン内容は男性を対象にカジノツアーとか、F1レース、あるいは女性ならグレースケリー頼みの企画が多かったのです。旅行に積極的な若い女性の視点から見るモナコを企画の中心にすえたので、モナコ政府が気に入ってくれたのです。18年前でしたが、モナコがハウの一番古いお客さんとなり、以来、毎年、年間契約を更新しています。

その後、最大のピンチが。今にして思う「いじめてくれてありがとう」
ハウはモナコ政府のほかにもバング・アンド・オルフセンとかカレーライカレーラとか、リアドロ、あるいはこの秋オープンするペニンシュラホテルなど、クライアントを順調に増やして行きました。ところが会社設立約5年後にキャリア人生最大のピンチが来ました。
D企画が上場することになり、子会社の整理をすることになったのです。バブルもはじけ、ハウは売り上げが落ちてきていたので、つぶしてしまえという意図が背景にあったと思います。整理したいからと普通に言えば、あんな騒ぎにもならなかったし、私も仕方なく他の道を探すことになっていたと思いますが、つぶし方がなんともドラマティックでした。

ある時モナコ出張から帰ってきたら、D企画の役員に呼ばれ、「こんな状況で会社やっていけるの。あんたがいない間に内部告発があった。誰もあんたについていかないよ。この告発状はあんたの名誉のため誰にも見せてないけど、あんたも犯人探しはしないほうが良い。」と言われ、私はショックで、部下と一緒に仕事もしにくい状況になってしまいました。そこで、ミーティングの時に正直に 「こういう話があった。皆を信用しています。この件に関しては、もし関係していないなら、関係していないというサインを欲しい」と言ったところ、全員がサインをしてくれました。これは明らかに業務上のセクハラです。皆がサインした紙を見せるとD企画の役員はとたんにオロオロです。なんとしても私を辞めさせたいけれど、そもそもがウソの話なので、D企画はそこの顧問弁護士にまで見捨てられ、何と私の会計士にどうにかならないかと頼んできました。「これはチャンスだ」という事で、資本金分を退職金としてもらって、ハウを自分の会社にすることができました。もし、D企画が正攻法で正面から辞めてくれと頼んできたら辞めざるを得なかったと思います。小細工をしてくれたから、有利になったわけです。D企画の男たちは私が泣いて辞めると思っていたと思います。男が女を馬鹿にしたから、このような逆転劇があったわけです。

長距離ランナーの男性。短距離ランナーの女性
私はバッシングが来るたびに、それをバネに、ポン、ポン、と一段ずつ上がっていったと思います。バネを上がるたびに、視点が高くなってくる。男性は、一生働いて、妻子を養わなければならないというトラウマがありますが、女性には選択肢がもっとたくさんあります。男性は一生仕事場を離れられない長距離ランナーですが、女性は短距離ランナーです。ガバッとがんばるから、ダッシュして男を抜いていく。でも、それで息が切れて脱落していく。今の社会は男が作ったものです。そこに女が入って行くのですから、そのことを理解していないと、バシッバシッとやられます。神聖な戦場に小生意気な女が状況もわきまえず入ってくるというのは、多分男性にとって、耐えられないことなのだと思います。男性を分かった上で、お互いの足りない点を理解して仕事をした方が得策です。彼らは自分の手助けになると思ったときはやさしくしてくれますが、自分の場を脅かす存在になると追い落とすことを考えるという事は分かっていたほうが良いです。

キャリアのことを聞かれることがよくあります。その時、「あなたはどういう一生を過ごしたいの」、と聞きます。「お嫁になりたいなら、一部上場の企業に入って、そこで物色してお婿をさがしなさい。キャリア専門で行きたいのだったら、もっと小さい会社に入って、そこで、いろいろなことをさせてもらいなさい。その内、自分のしたいこと、やりたいことが見えてくるから」、と言っています。

信頼関係とクリエティビティがモノをいう広報の仕事
広報の仕事に画一的なものは一つもありません。広告と広報の違いは、広告はお金を出してメディアのスペースを買い、自分の言いたいメッセージを送ることができますが、広報は、メディアにニュースを書いてもらうわけですから、ニュースを作るという事が重要になります。画一的なアプローチでは記事にしてくれません。常に、クライアントのマーケティング部という気持ちで、商品の見せ方、書き方、プレゼンの仕方を工夫します。有名ブランドなら、記者を集めるのは容易ですが、名がないブランドの発表会にどうしてきてもらうか、頭のひねりどころです。それには、まず、普段からの信頼関係が重要ですが、こういう関係作りは女性には得意な分野だと思います。また、常に何が新しいかアンテナを張っておく必要があります。当たり前の場所には誰も来てくれません。辺鄙な所でも面白そうだと思えば、話は別です。たとえばバング・アンド・オルフセンのテレビの発表会をする時に、場所にお金をかけられず、社員があるお寺を探してきました。お能を舞える友人を呼び、真四角な所にコンピューターグラフィックで竹がソヨソヨと揺れている映像を流し新製品のテレビのモニターに舞を映しました。お金はかけていなくても、ハウがやるイベントは印象に残るという評判を得ることができました。実際、お金がないから、工夫するわけで、ですから、仕事が面白いわけです。クライアントの商品の特長を見つけ出して、メディアに紹介する事が質の良い露出につながるのです。

社員は、一人一つはクライアントを持っていますが、言われたことをそのままするのでは単なる使用人ですから、それ以外に提案がなければダメと言っています。異業種とのコラボレーションなど賢いアイディアを出して欲しいと願っています。そのためにはいつも好奇心をもって、きょろきょろしなければならないし、山とある雑誌も、テレビも見なければならないし、ネットワーックも作らなくてはなりません。「お助けエージェンシー、ハウ」と言われるようにならなければと思います。

社員には「追加予算を取ってきたら、その利益はその人に返します」と言っています。そうすると「稼ごう!」という気になって、燃えるのです。PR会社は無数ありますが、女性には入りやすい仕事だと思います。私は海外の企業が日本に進出してくる時の架け橋になって、異文化紹介に貢献したいと思っています。

小さい時からの「人好き」が今の仕事に繋がって
小さい時から、バスガール、スチュワーデス、それから、国連のスタッフなどになりたいと思ってきました。考えてみると、常に人との接点があるサービス産業の仕事ばかりです。私は人が大好き、ネットワーク大好き、新しい分野の人と会うのは大好きなのです。皆さんも人と付き合うときは、質の高い友達と付き合いなさいね。どういう友だちを持っているかでその人の価値が出てきますから。

ピンチは乗り越えられる人のところにやって来る
ピンチというものは、やっと一つ乗り越えたとおもうと、次のピンチが来ます。仕事のみならず家族のことも同じです。でもこのごろは、「乗り越えられるから苦労が来る」という事がわかってきました。乗り越えられない人にはピンチは来ませんし、来ても気がつかないかも知れません。皆さんに申し上げたいのは、ピンチやバッシングにあったら「サンキュー」と思いなさいという事。ピンチがあなたを強くするチャンスなのですから。

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