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2006年10月26日 (木)

第2回 株式会社電通 白土真由美さん

「自らの価値観の追及がもたらした組織の活性化と
 CSRによる新たな社会価値創造の可能性」

講師 (株)電通 IMCプランニング・センター ソーシャル・マーケティング部プランニング・ディレクター

白土 真由美氏

20061004

皆さま、こんばんは。白土です。よろしくお願いします。
皆さんも緊張なさっていられるようですが、私も緊張状態です。長丁場ですのでどうぞ、リラックスしてお聞きください。

今回は、ご親交をいただいている松信さんからのご紹介というか、プレッシャーがありまして(笑)、お話をお引き受けすることになりました。松信さんは、以前、私が営業の駆け出しの頃のクライアントで、その後も先輩として常にエンカレッジしていただいています。今回は、このキャリアカフェを通じて、若い世代の働く女性を応援されたいというお話でしたので、私が過ごしてきた道や、谷も多かった会社での経験をお話することで、多少皆さまのお役に立つことがあればと思って、お引き受けすることになりました。あと、CSR(コーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティ)という企業の社会責任が本日のお題でもありますもので、少し話が硬くなってしまうかも知れないのですが、それについても簡単にご紹介したいと思います。

剣道の防具の臭さに満ちた花のない高校生活

キャリアカフェのコーディネートをされている阿部さんから、入社してからのキャリア・ストーリーを話して頂きたいという事でしたので、少しお話したいと思います。高校時代は暗い青春を送りました。父が剣道の師範をしておりましたので、剣道以外はダメと言われ、他のスポーツをしたかったのに泣く泣く剣道三昧。おかげさまで、二段です。剣道はもちろん、いいところもあるのですが、防具が臭いんですね、特に夏になると(笑)。他人が使い回した臭い防具で練習をし、まったく花のない青春でした。

願うは自活。キャリア意識なし

その頃は、自分がどういう大人になって、どういうキャリアを作っていくのかについて、まったく考えていませんでした。ともかく、早く親元から独立して家を出て、自活することしか頭になく、高校卒業後、津田スクール・オブ・ビジネスに入学しました。ここで英語をある程度身につけさえすれば、商社などへの就職の際に有利だという事で真面目に勉強したのですが、この2年間で私が全く期待していなかったものを手に入れることができたのです。高校時代も英語は嫌いではなく、教会に通ったりして、聞くとか話すとかの真似事程度ならなんとかできたのですが、書く事は殆どできなかったので、それをビジネススクールで鍛えて頂いた結果、今とても役に立っています。

何も分からず電通に入社。これが仕事?

津田SOB卒業後、商社を受験したのですが、あっさりと落ちてしまい(笑)、そのタイミングで入社試験を受け付けている企業は電通しか残されていなかったので、どんな会社かよく分からないまま入試を受けました。入社後の配属先は、クリエーティブ局という広告を作るセクションの総務課だったのですが、新入社員ですから、毎朝新聞を配ったり、出退勤簿をつけたり、が主な業務でした。広告代理店という仕事柄、スタッフが毎晩遅くまで働きがちな環境も手伝って、当時は仕事が終ると、そのまま酒盛りが始まることもよくありました。会社は9時半から始まるのですが、毎朝8時半に出勤し、洗い桶2杯くらいの量の前夜の宴の残骸を洗うことから一日が始まるのが当時の日課でした。私自身は、お酒に弱い体質なので、洗っているうちに給湯室で気分が悪くなったりした事もありました。また、今日のランチは「お蕎麦で!」という事になると、唯一の楽しみだった同期社員とのランチをキャンセルして薬味の葱を刻みながら涙する、ということもよくありました。「これが仕事というものなのかなあ」と悩んだ末、「こんなことじゃいけない。多少は英語を身に付けたのだから、これを武器に、仕事で外国に行けるフライトアテンダントを目指そう!」と安直に考えてはみたのですが、「体力的に大変だよ、君には務まらない。」と冷静な友人にアドバイスされ、怠惰な性格の赴くまま、そのままズルズルと電通でお世話になっておりました。

外資系クライアントに鍛えられ、社会性の萌芽も誕生

そんな自問を繰り返していた23歳の時、盲腸をこじらせて1ヶ月くらい会社を休んだのですが、快復して出社したところ、突然の異動命令で外資系のクライアントを担当する営業局のアシスタント営業職となりました。当時は雇用均等法施行前で、女性には事務補助職という名目でしか就労機会が与えられていなかったのですが、たまたま外資系アカウントを担当していた同期入社の女性アシスタント4人の中の一人が退社したため、多少英語ができそうだという誤解から、その後任として抜擢されたようです。そして、その後の十数年は営業局員として、ネスレ日本、アリカン・エクスプレス、タイム・ライフ、パシフィック・アイランド・クラブ、ジェネラル・エレクトリックなどの錚々たるクライアントに鍛えていただくことになりました。外資系企業ではコンプライアンスが非常に強いのですが、その中でも一番厳しいと評判だったA社では非常に緻密な財務管理が求められた結果、一銭一厘に至るまでのエビデンス資料提出のために多くの時間が割かれ、担当として非常に苦労はしたのですが、ある時、予想外の事件がありました。社内的には長い歴史のある地方新聞社との共同企画で、新聞広告掲載料金の一部を書籍に換えて、全国の養護施設に対して寄付するというプロジェクトがあったのですが、その年は非常に景気が悪かったため、常連クライアントはおろか、新規クライアントへのプロモートも叶わず大きな問題になっていました。一紙分だけでも付き合って頂けないだろうか?との万一の望みをかけて、A社にプロポーザルを持参したところ、「これ、誰も乗らないと困るんでしょう?」と思いがけないリアクション。のみならず、地方紙連合53紙全てへの出稿を即断して下さったのです。「あのA社が?ありえない!」「えっー、まさか・・」と、悪名高かったA社が、この事件で一躍ヒーローとなり、社内は大騒ぎになりました。A社は予算の使い方に関しては非常に厳しい企業でしたが、妥当性さえあればちゃんと払うという素晴らしいポリシーを持っていたのですね。外資系はすごいと思いました。この頃、始めて私の中で企業の社会性に関する萌芽が生まれたと言っても良いかと思います。また、自分のキャリアという事を考え始めたのもこの頃でした。外資系クライアントの営業を10年位経験し様々なことを学ばせて頂きましたが、その学習のストックが、スペシャリティとして自分の中に蓄積されていない事に悩み始めたのもこの時期です。

弾けられない体質が露見したコンベンション・プロデューサー時代

私が32歳になった頃、ニューヨークにジェーコブ・ジャビツという大きなコンベンション・センターができたのですが、そこを視察してきた経営者が「次はこれだ!」と閃き、コンベンション業務室新たな組織として誕生しました。会議、レセプション、旅行など、コンベンションに関わるさまざまな業務を一括してプロデュースするセクションだったので、スペシャリティを磨くには格好のテーマに思えましたし、引っ張って下さる先輩もいらしたので、ここからコンベンション・プロデューサーの道を歩み始める事になりました。初仕事は、NYとパリの大企業を相次いでM&Aで買収したばかりの資生堂さんのグローバル・コングレスでした。高輪と新高輪ホテルを貸し切っての一週間に亘るイベントの参加者は35カ国からの3500人。 三社一堂に会してのこの一大イベントを仕切る自信は全くなかったのですが、上司のサポートもあり、なんとかやり遂げたことがその後のプロデューサーとしての大きな自信に繋がったと思います。そしてその後の10年ほどは、プロデューサーの道を歩むことになるのですが、そもそもイベントというのは、本番当日までガーッと突き進み、その成果が見事に結実する結果を目の当たりにできるのが最大の醍醐味。「やった、やった!!」と盛り上がってこそ楽しい仕事なのですが、私自身はどうやら弾け難い体質らしく、周囲が盛り上がれば盛り上がるほど、何か内省化して寂しくなってしまう事に気づかされ、もう少し本質的に自分に合ったことをしたいなあ、と再び悩む日々でした。

紆余曲折の40代。価値観の危機に直面

40歳代は紆余曲折の時代でしたね。長野オリンピックや2002ワールドカップなど、いろいろな大型イベントに携わる中で、所属局も転々としていました。環境が変化する中で、いろいろな価値観にぶつかり、自分のレゾン・デートル(存在理由)があいまいになっていた時期だったと思います。そんな自分自身が揺れているタイミングで、センセーショナルな事件がありました。その結果、女性の所為ではなかったにもかかわらず、現場業務に携っている女性社員7人が全員、管理部門に異動させられることになったのです。雇均法施行前の入社だった私の世代では、良くも悪しくも「機会を与えられたら、ちゃんと責任を果たさないと、後に続く女性達に迷惑がかかってしまう。」という、仕事に対する自分なりのミッションがあり、そのため肩に妙な力が入っていた部分はあったのですが、この情け容赦のない人事異動によって、それも突き崩されてしまった。「今まで20年間コツコツと積み上げてきたものは一体何だったのだろう?」と自問することになりました。その結果、自分の価値観が、組織オリエンテッドでなくて、もうちょっと引いたところ、電通全体とか、クライアントと電通とか、メディアと電通とか、もっといえば、社会とか。 この時期に、自分の視点がどんどん高く広くなっていったのではないかと思います。空間的にも、時間的にも。その結果、持続可能性、というとCSRのベースになるのですが、そういう事がとても気になりだました。広告の仕事を翻ってみると、自分が携ってきた業務のビジネスモデル自体が、資源の大量調達、大量生産、大量流通、大量消費、大量廃棄モデルを加速させている事に気づき、「流石にもうこの業界では働けないなあ。」と、真剣に転職を考え始めました。

たどり着いたオールウィン・デザイン。自由演技で始めたCSRが規定演技に

とはいえ、先ほどお話したように、本来怠惰な性格なので、「なんとかこの会社では働きながら、マーケティング・コミュニケーションという現業を通じて、企業とかメディアとか、もっと言えば生活者のパーセプションを持続可能なモデルにシフトできるコミュニケーションができないだろうか? そうすれば、私もハッピー、生活者もハッピー、会社もハッピー、クライアントの持続可能性も担保できるのではないか? などと、非常に都合の良いことを考え、全く個人的な動機から、ユニバーサル・デザイン(UD)とかCSRとかに細々と取組み始めました。最初の頃は、「金にもならないのに、一体何をしているんだ」といわれたり、「UDおばさん」とか「CSRオタク」とか、からかわれたりもしましたが、馬耳東風と受け止め、与えられた業務に支障を来たさない範囲でクライアントへの自主提案を続けるうちに、先ずクライアントが興味を示して下さるようになり、是非話を聞かせて欲しいと言って頂ける様なりました。既存の価値観に対するアンチテーゼを求める時代背景もあったと思いますが、ひとまず社会という旗を立ててみると、「是非一緒にやりたい」という社内有志が続々と集まり、社会価値を創造しながら電通のビジネスにもつなげるモデルを考える、「ソーシャル・バリュー・クリエーション」という、勝手連のようなチームが誕生し、ここからとても楽しいプロジェクトが次々に生まれました。もし仕事に、規定演技と自由演技というものがあるとしたら、当時の私にとってのCSRやUDは、まさに自由演技でした。でも会社も良くみていて、「そうは遊ばせてもいられない、高い給料も払っているのだし、これからはその自由演技を業務で実行せよ!」という事態になり、昨年7月に誕生したソーシャル・マーケティング部で、クライアントの社会的価値を創造するそれをする規定演技種目の代表選手になってしまったわけです。「なってしまった」と表現させて頂いたのは、クライアントとの合意の上で自由演技として思う存分取り組んでいた時代は、多少の怪我を覚悟の上でダイナミックな技にも取り組む事ができためたのですが、組織的合目的性を求められる組織人となると、まあ、ちょっと大変です(笑)。

とはいえ、当然正式な組織体となったからこその効果もありました。現在、部員は20名程度で、CSRに関する興味の度合いや理解度もさまざまなのですが、優秀な人材が加わると、私が考えもつかなかったような大きなダイナミズムが生まれる現象を幾度も遭遇しました。これは予想外の嬉しい裏切りであり新たな発見でした。また、若い人たちの中に新しいコンセプトの種が残されると、今度はその人たち自身がバージョンを上げた上で、新たなエンドーサーとなって周囲に働きかけていくスパイラルが生まれます。こうして個人的なアプローチに過ぎなかったCSRの考え方が、新たな知を伴って急速に広がっていく事が叶うのは、組織の持つ素晴らしい部分だと思います。ソーシャル・マーケティング部がキックオフする時に、「3年たったら辞める。その後は着物部をつくりたい。」と、上司に宣言しました。着物部というのは比喩なのですが、こう見えても、私は日本的なものが大好きなので、多くの方がジャパンバリューの恩恵に預かれるような環境に、将来の日本や世界がなれたら素晴らしいだろうな、と日々妄想を逞しくしているのです。それを現在の組織の中で実現できるかどうかは神のみぞ知る、ですね。

勝手連、「ソーシャル・バリュー・クリエーション」チーム誕生

これは、私の一番のお気に入りのプロジェクトで、「ウェルカムほじょ犬!」です。2,3日前の朝日新聞の天声人語にも紹介されていましたが、3年前に、盲導犬、聴導犬、介助犬の三つの機能を持つ犬たちの、不特定多数の人が出入りする民間施設や行政施設へのアクセス権を保証した身体障害者補助犬法という新法が施行されました。施行前までは、盲導犬だけが道路交通法の一環でアクセス嫌を保証されていましたが、聴導犬、介助犬にはそれまでその権利が認められていませんでした。交通機関などの実施する試験に合格すれば権利を認められるのですが、そのトレーニングのチャンスもないし、試験自体もとてもアンフェアなものでした。議員立法として通過した新法は、補助犬の育成を支援し、試験を通過した補助犬とユーザーのアクセス権利を保証する素晴らしいものです。ただし、その施行自体が、補助犬が新たに登場する場に遭遇する人々に予め認識されていないと、様々な不都合が予測されます。そこで、我々は、それまでは三つの機能別、更には個別の育成団体毎に制作されていたピクトグラムの統一化を図ることで、施行時のコミュニケーション・インパクトを最大化させること。そして、コミュニケーション・ターゲットを、既成概念を刷り込まれた大人ではなく、先ず先入観のない子供に設定したビジュアルとコピー開発に挑戦しました。「ほじょ犬」と敢えて平仮名にした理由はそこにあったのですが、お陰さまで、平仮名でほじょ犬と入力して検索して下されば、すぐに厚生労働省の該当ページに辿り付けるようになっていますので、是非アクセスしてみて下さい。また、それまでは「同伴可」と言う表現のピクトグラムもあったのですが、「可」が含むイヤイヤながらというニュアンスを失くすために「ウェルカムほじょ犬!」という発想の転換を提案しました。厚生労働省のウエブで紹介されているミニポスターとステッカーは、どなたでも無料でダウンロードして使用することができます。また、ポスターのタグライン「xxにもおじゃましています。」のxx部分は、たとえば「恵泉銀座センターにも」とパーソナライズすることができますので、ほじょ犬をウェルカムされたいという方は、是非このデータを活用して、障害者の社会参加の運動の輪をご一緒に広げていただきたいと思います。http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/hojyoken/
なかなか働き者のワンちゃんで、お陰さまで2004年にはコミュニケーション部門のグッドデザイン賞受賞という嬉しいご褒美も頂戴しました。

今や、企業の持続性に不可欠なトリプル・ボトムライン

さて、今日の主題はCSRですので、少し難しい話で恐縮ですが、ここから少し概論を述べさせて頂く事にします。この図は、トリプル・ボトムラインという図で、1980年代に英国人のジョン・エルキントンという人が考えられたものです。以前は、企業経営はシングル・ボトムライン、つまり、経営の安定性とか、企業の成長性など単純な経済的側面だけを追求しておけばよかったのですが、持続可能を目指す社会において、非常に大きなインパクトを持つ一大アクターである企業体自身が、環境的側面、さらには社会的側面にも配慮した経営のバランスを目指さなければ、企業の持続性も、ひいては社会の持続性も保つことができないという概念を表したにしたものです。CSRはその中核概念として経営そのもの考えられているため、この推進には、宣伝部とかブランディングなど一部特定組織ではなく、企業全体を統括するトップ自らが主体者となって能動的に推進するものと位置づけられています。

社会人として、会社人としての「のりしろ」があなたを変える

私自身も心がけ、部員にも話していることですが、私たちは、一人ひとり、会社人であると共に、社会人であるわけです。会社人として、また社会人としての「のりしろ」が重なる部分が多ければ多いほどストレスも少ない筈ですし、結果的に私たち自体が、仕事を通じても大きな社会資産になっていくのではないかと思います。私たちは、会社にとっては従業員という資産であるし、市民としてももちろん社会資産です。個人として、市民として、企業人として、私たち一人ひとりが、CSRを梃子にしたオールウィン・デザインの関係を作れないだろうか?と意識しさえすれば、会社の業務を通じて社会に貢献できることはいろいろとあると思うのです。そういう風に考えると、日々の辛いお仕事も少しは創造的に考えられるようになりませんか?

企業経営と社会貢献の関係を示した現場発想の電通CSRモデル*

これは、電通のCSRモデルです。クライアントといろいろな話を続けているうちに、試行錯誤の結果開発されたものです。アカデミズムを背景とした概念的なものではなく、現場からの発想から生まれたシンプルなモデルですが、企業経営と社会貢献をどのようにポジショニングするべきか、またそのプライオリティはどうかるべきかを示しています。このモデルではピラミッドが3等分されていて、一番下は、法令順守などの与件的領域。ここで違反を犯すと退場を宣告されるレッドカード・ゾーンです。今までは、2番目の層があまり注目されることなく、一番上の、ノブリース・オブリージュ(Noblesse Oblige)の領域、いわゆるメセナやフィランソロピーところが脚光を浴びていました。ここは、たとえば冠イベントとか文化イベントへの協賛などで、ブランド価値やイメージは上がるかも知れませんが、企業の現業動機とは直接関係のない慈善的領域です。その間に挟まれた真ん中を、私たちは戦略的領域と呼んでいます。企業が現業を全うしようとすれば、必ず何らかのネガティブ・インパクトが発生する可能性があります。たとえば携帯電話は便利ですが、ネガティブ・インパクトとしては、車内での電話、盗写、運転中の通話などが考えられます。ですから、ここはネガティブ・インパクトをゼロにしようという問題意識をもって、それを解決するための実質的な方策とともに、それをコミュニケーションする事で企業価値を向上させようという戦略的な領域です。つまり、現業と社会・環境の関係性を与件とした課題解決施策がこの領域の視点です。

近頃の生活者は多元的な情報源をもとに、企業活動をよく見ていますから、真ん中の戦略的領域における活動が正しく認識されないまま、一番上の慈善的領域の活動ばかりが目立ってしまうと、寧ろ「あざとい」という風に捉えるのではないかと思います。20年前でしたら、「おしゃれだわ」と好意的に受け取られていた活動も、戦略的領域の活動実態が認識されていないと「そこはどうなっているんだ!」と厳しく問われる時代になったということでしょうか。また、企業の現業動機や独自の経営資産に根ざしたテーマに注力することで、他の企業がたやすく真似できないオリジナリティの高いCSR活動を導き出すことが重要で、結果的に企業価値の向上に貢献するチャーミングなCSRが実現すると思います。

※このモデルは電通が著作権を有しますので、許可なくご使用になるのはご遠慮ください。編集部より

CSRはさまざまなアクターがハッピーになるオールウィン・デザイン

個人、企業、社会のオールウィン・デザインを考えることができる概念がCSRではないか、と私は考えています。企業に、トリプル・ボトムラインの意識を持って働いている社員が多ければ多いほど、企業体質は強くなると思いますし、優れた企業では、そういう人材を切望しています。また、それらの人々が、何が持続可能な商品やサービスなのかを見極める選択眼を持ち、積極的な購買行動という形で様々な企業活動を支援する意志を表す事もできます。考える企業人として、また考える一生活者として、私たちは持続可能な社会に対して大きな貢献ができる可能性が沢山あります。

私は、そもそも企業活動そのものが非常に重要な社会貢献だと考えています。車や、水、電気、PCなどの恩恵がないと、現代社会で暮らす私たちは非常に困ってしまいますよね。つまり、殆どの企業体は、その存在が許されているからこそ、市場に受け入れられているとも言えるのではないでしょうか。けれども、これまで厳しくチェックされてこなかった、企業活動から発生するネガティブ・インパクトに対して、ステイクホルダーの意識が鋭敏になり、企業意識や行動を厳しく追及する時代になったのではないでしょうか?

日本には、「徳は密やかに行うべきもので、他人に言うべきものでない」、つまり陰徳という言葉があり、その美意識が尊ばれた時代がありました。でも、本来、リターンを求めずにコッソリ取り組む活動は、極論を言えば、株主背任行為にもなり得ます。CSRによって企業価値を向上させようとする意志を持つなら、ここは少し考え直す必要がありそうです。ビジネスとしての投資によって、然るべきリターンを求めるならば、多くのステイクホルダーに対してきちんと情報を共有し、その上で正負の活動評価を求める事が必要です。 つまり、企業は陰徳の時代から、トヨタさんのコトバですが、得を顕かにする「顕徳」の時代へと鮮やかにシフトすべき時期を迎えているのではないでしょうか。そういえば、中国では「陽徳」という言葉があるということ事を最近知りました。流石に長い歴史の国です。

私の考える仕事力とは?

阿部さんから、「仕事力」についての私の考えをご紹介するように、との事でしたので、最後に一言。私が考える仕事力とは「設問力」と「プロアクティブ」な姿勢です。疑問を持つという事は、対象に対する自らの視点があるという事に他なりません。また、プロアクティブなアプローチは、単に客観視して評論家になってしまう愚から私たちを解放してくれるのではないかと思います。とても難しいのですが、常に能動的であり続ける事は、私自身の命題でもあります。

それではこれから、スライドを使ったCSRの事例をいくつか紹介します。
(スライド説明は、省略します。)

しつこく持ち続けた自身のテーマが活路となった事例

今回のセッションの事前打合せの際に、阿部さんご自身が、興味を持って下さった私自身のキャリア・ストーリーは、華やかなキャリアを積んできたわけでもなく、転職をしながらステップアップをしていったのでもなく、自分の怠惰な性格を認めながら、同じ企業・環境の中で、何度も谷に突き落とされながらも、自分なりの言い訳とか、新たなモチベーションを見つけながらなんとか生き残りき、結果的に、企業や組織体が、社員の問題意識から発露されたテーマを追認してくれた点だそうです。私が組織を動かした、という大それた話では決してありませんが、少しでも皆さまの今後のご参考になればと思います。
どうもありがとうございました。

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