2007年8月12日 (日)

株式会社リクルート 阿部由紀さん

本業以外の肩書きを持ちませんか?
~週末プチ起業から始めるデ
ュアルワークのすすめ

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人生を複線化するという発想 

 今日は本業以外に肩書きを持つ、つまり「2足のわらじを履く」ことについてのお話です。 私は普段は会社員として働いていますが、ここ2年くらい、別の道筋をつけることにこだわり続けてきました。
 ところでこんな調査があります。リクルートワークスが2006年に実施した「ワーキングパーソン調査」について、副業意向の設問があります。現在副業を持っているワーキングパーソンは6.2%と少数だが、「今後は持ちたい」を合わせると2割超。また正社員の副業意向者は30代後半と40代にやや多くみられるという結果が出ています。キャリアを積むにつれて、副業意向が高まるというのはなかなか興味深い結果だと思います。
 今日お集まりの皆さんは、副業というものに少なからず関心をお持ちの方だとお察ししておりますので、私の経験がお役に立てればと思っております。
 さて皆さんは、いくつの「顔」を持っていますか?おそらくは会社にお勤めの方たちが多く会社員の顔ひとつだという方が大半、あるいは本業以外にお仕事をお持ちの方がいらっしゃるかもしれませんね。今回お話ししたいのは、人生を単線ではなく、複線で歩んではいかがでしょう、というご提案です。つまり、本業以外にももうひとつの道を切り拓くことを、一緒に考えてみたいと思っています。 ちなみに私の場合は、「リクルートの社員」、「うつわの店のあるじ」、「キャリアカフェの企画運営者」という3つの顔の持ち主です。でも、つい1年前はたったひとつ、つまり会社員としての顔しかありませんでした。このあと、なぜ3つの顔を持つに至ったのか、お話をしてまいります。
 
キャリアストーリーと気づき

 私の中学・高校時代はまさに受験勉強一色、ところがそれが嫌いというわけでもなくストイックに勉強を続けること自体が楽しいという子でした。ところが大学受験に失敗に浪人生活に突入、初めて大きな挫折感に見舞われる結果となりました。東京の予備校に入学し浪人時代が始まったのですが、予備校生生活が楽しくて楽しくて・・・。受験テクニックを教えてもらえるので模擬試験の成績はグングン上昇、一方で多くの友人に恵まれ、高校時代を超えて青春真っ盛りの楽しい時間を過ごすことができたのでした。
 翌年、無事に大学に入学、外国語大学でイタリア語を専攻しました。折しも世の中はバブル時代、預かった恩恵としては、条件のよい多くのアルバイト。社会人との接点も多く、漠然と早く社会に出たいという思いを強めていました。大学4年の春、就職部で就職意識調査を行うという案内が出ていて、面白そうだから参加をしました。実は主催はリクルートだったことを当時は知らなかったのですが、それがきっかけでリクルートのリクルーターに何度か会うようになり、気がついたら内定を得ていた、というのがリクルート入社のきっかけなのです。本当は新聞社に就職希望だったのですが、あまりにもリクルートの女性社員がいきいきを働いている様が魅力的で・・・。ここなら、働くのが楽しそう、ということを直感しての選択でした。それは当たっていましたが。
 さて、リクルートでは、業界としては不動産、結婚、進学、フリーペーパー、職種としては営業、広告制作、企画、管理職、プレイヤーと非常に幅広く仕事をしてきました。現在はフリーペーパーの部門で、本作りのワークフロー構築、品質基準策定とマネジメントを担当しています
 就職してから10年くらいたって、気がついたら次第に周囲が早期退職制度を活用して辞めていき始めました。特に女性の場合だと、出産や休暇をとるために仕事を辞める人も多く出てきて、なんとなく自分を取り巻く様子が変わりつつありました。また、進学の部門にいたとき、中長期サイクルの仕事に関わるようになり、自分のことも長い目で見るようになりました。また、『キャリア』ということばがよく言われるようになったのもちょうど30台半ばのこの頃で、漠然と『天井感』のようなものや焦りを抱き始めました。自前でスキルアップといっても何からか手をつけていいかわかりませんでした。
 また、当時業務のために取得したしキャリアカウンセラーの資格を得る途上で学んだことで、自分自身の今後のキャリア形成についてますます真剣に考えるようになりました。さらに36歳くらいのときに今のキャリアカフェのメンバーとの出会いがあって、社会と接点を持つことの意味に触れたり、社外の方たちと知り合うことで自分の視界の狭さを実感したりと、なにかと考えさせられる機会が多くあったわけです。
 今の仕事に不満があるわけでもなく、さりとて転職に踏み切るほどまだ自分の専門性が研ぎ澄まされている段階でもない。では、現職を持ったままで何か自分が『好きなこと』を具体的に形にしてみるという手はないか?これが私の気づき、すなわち、デュアルワークの発想の原点でした。本業をやめのことはせず、まずは小さいサイズから事を始めることを決意しました。
 改めてまとめてみると、
■ 社外との接点・パートナーシップ行動を強めたいという思い
・ ともに何かを作り出すことを通じて、スキルをつける
・ 本業への波及効果
■ 会社にすべてを依存することのリスクを認識
・ 打てる手は打つ。現職が充実しているときこそ、種を蒔いておく
■ ワークライフバランスの観点
・ これからは働きながら能力開発していくための生活バランスが大切
これが私の考える、デュアルワークの意義です。社会の中で、なにか本業のほかに腕試しをすることはたいへん重要だ、ということが言いたいことなのです。

ittokiについて

 私の本業以外に取り組んでいる2つのうち、ひとつがこのittokiです。今回はどのようにittokiを立ち上げたか、実例を交えてお話しいたします。
 Ittokiは週末だけオープンする自宅を使ったギャラリー、ほんの一時だけの期間限定、不定期開催としています。扱うのはうつわ。窯元を自分の足で巡り、作家と作風に惚れこんだものだけをご紹介、うつわを通じて作り手の心と使い手を結びたいと考えています。またうつわを通じて、丁寧に暮らすことの大切さを知っていただくことも合わせて伝えたいのです。
 ittokiを開きたいと考えたきっかけは、唐津のある鮨屋での出来事でした。2005年冬に福岡出張の際、唐津で窯元巡りをしたのですが、ピンとこなくて。あきらめかけて昼食のために入った唐津の銀鮨で中里花子さんのうつわとの衝撃的に出会ったのです。左の写真がそのうつわ。酒器ですね。大将と女将にかけ合って、この作家との接点を作ってもらったのです。
 これは第1回ittoki 中里花子展のときのリーフレットです。写真撮影、デザイン、コピーワーク、印刷・製本・・・すべて自分でやりました。

【第1回ittoki 中里花子展】
■会期/2006年3月25日(土) 11時~20時
■作家プロフィール/1972年種子島生まれ。陶芸家の父・中里隆氏に師事、主に米国で作陶。昨年より唐津に窯を構え、monohanako設立。
■作品内容/主にアメリカで製作した計43点(鉢、小皿、酒器、花器など)
■作品平均価格/1万7000円
■来場者数/29名

【第2回ittoki 小野鉄兵展】
■会期/2006年12月9日(土) 11時~19時
■作家プロフィール/佐賀県嬉野在住の急須作家。
■作品内容/計32点(急須、湯冷まし、湯呑み)、全点ittokiのためにオリジナルで焼いてもらう。
■作品平均価格/7900円
■来場者数/20名

 さて、ittokiについてさらに詳しくお話しいたします。以下は中里花子展開催までの流れです。

① リサーチ・プランニング期間(2005年夏~)
・ネットショップの検討(『ネットではじめる雑貨屋さん』)→滋賀のショップオーナーとメールでやりとり。ノウハウを教えていただく。
・横浜でギャラリー開業した友人に相談。
・首都圏の気になるうつわショップを訪ね歩く。(青山・楓、西麻布・桃居、鎌倉・祥見)
→『自宅ギャラリー』という発想を得る
② 作品選定(2005年秋冬)
・関東近県、沖縄読谷村、唐津で、情報収集、窯元巡り
・中里花子の作品に出会い、惚れこむ
③ 作品仕入れ(2006年1月上)
・唐津の中里宅で作家本人と会話しながら、 43点を約2時間で選定、買い付ける。
・今後、ittokiのためにうつわを焼いてもらうことを約束いただく。
④値付け
・売値の7掛けで仕入れ。
⑤PR・集客(2006年1月~)
【リーフレット作成】
・作品全点撮影(自宅にて。ライト、デジカメ、三脚使ってすべて自分で撮影)
・デザイン、コピーライティング→DTPは従姉に依頼→印刷・製本、封筒、シール作成
【発送・広報】
・発送(クロネコメール便)、PDF添付のメール配信、手渡し、ギャラリーに置いてもらう、等
⑥運営事前準備(2006年2月~)
【包装】
・馬喰町にて、袋、包装紙、リボンなど購入。包装方法の検討
【接客用グッズ】
・お茶、お菓子、懐紙、芳名帳、領収書など
【ギャラリーのレイアウト(ディスプレイ)】
テーブルや棚(すべて有もので)、クロス(もらいもの)、値札
⑦前日準備
・釣銭用の両替、掃除、作品の陳列
⑧当日運営
・生け花(草月流師範の野嶋さんに依頼)、接客、お茶いれ、包装、包装
⑨終了後
・後片付け、収支計算、打ち上げ、お礼状送付、作家への報告
 こうやって一連の流れをまとめてみるとサラリとしているように見えますが、実はいろいろとありました。ほれこんだ作家の作品について、果たして買い付けるか否かをなかなか決断できず、キャリアカフェのメンバーに相談したところ、『買うしかないよ!』と背中を押してくれる応援メッセージ。ところが今度は、作家に連絡することにたいへん躊躇。なにせ作家ですから、怖いわけです。いよいよ意を決して電話したところ、開口一番
 「いいですよー」
と、アッサリ。たいへん拍子抜けしました。
 それからはすべてが早く進行していきました。また、「ショップ」を運営するということについては大きなリスクが伴うものですので、私の場合は自宅が恵比寿ですので、ショップとしては絶好の立地ということも生かしました。

デュアルワークの効用について

 デュアルワークをすることの効用を考えてみました。

■本業を一般化・相対化して捉えるゆとりができる
・社内の常識や流儀に流されず、一歩引いてみることができる。
■儲けを考えることよりも、やりたいことを試せる場。
・発想の幅が広がる
■行動することで新たな機会が生み出される
■新しい出会いがある
■とにかく楽しい

 特に本業でつまらないことがあったとき、「ま、いいや」と受け流せる余裕ができます。また、私の場合だと、ittokiを通じて知り合った方たちはこれまでとはまったく違う世界の方たち。ソムリエ、寿司職人、レストランオーナー、ほかのうつわ作家さん・・・など。また、唐津という町が自分にとって特別な場所になりました。Ittokiを立ち上げなかったら、多分一生行くことはなかったでしょう。またこうしてキャリアカフェについては、参加者の皆さんとの出会い、会社内で知らない他事業の方からも反響をいただきました。これは本当に励みになりました。

デュアルワークをこれから始めたい方に

 まずお伝えしたいのは、
“障壁だと思っても、行動してみたら実はたいした問題ではない。行動することですべては『機会』となる。”ということです。
 たとえば私の場合はこうでした。
障壁1/いい作家・作品はいったいどこに?
→窯元の多い街に行き、感度の高いスポットを回っていたら見つかった!
笠間なども回ったのですが、町全体の雰囲気、食べ物、集う人たち・・・トータルで見ないと素敵なものにはなかなか出会えない、ということです。

障壁2/作家ってちょっと恐い。電話かけたら失礼?
→意外にビジネスライク、そしてフレンドリー!
作家さんが縁遠いので、怖かったのですが、実はわりと皆おしゃべりで気さくなんですね。

障壁3/時間・場所・お金はどう工面する?
→自宅・週末・小額でスタート、友人知人の力も借りる
お金についてはまずはリスクの少ない額、痛手がない範囲で、というのが大切です。

 そして、大切なこととして、“デュアルワークの芽は自分の中にしか存在しない”
ということもお伝えしたいのです。私の場合、なぜittoki、なぜうつわだったのか、ということを紐解くと、原点は『食』にありました。また、広げていうと、人と人を結びつける食文化とその周辺物に対して関心が高かったのです。実際に料理人になるとか、陶芸家になるということではなく、あくまでコミュニケーションにおける食とうつわの大切さについて伝えたい、というのが私のしたいことでした。
 いま、世の中はまさに“デュアルワークにフォローウィンドが吹いている”状況にあると思います。キャリアスキルを継続的に磨き続けないと乗り切っていけないのです。そのための自己研鑽ツールがデュアルワークとも言えるのではないでしょうか。
 リクルートでも、最近、社員の社会貢献活動についてスポットをあてています。また、かつてこのキャリアカフェでも講義していただいた電通の白土真由美さんも、個人的動機で始めたデュアルワークがきっかけでCSRを事業化させたという実績をお持ちです。これからこのような事例がどんどん増えていくのでは、と思っています。
 みなさんは、本業一本道で行きますか?それとも複線化して豊かな人生を歩みたいですか?
もし、わずかでも複線を敷きたいという思いがあれば、まずはその思いを身近の誰かに伝えて、その思いの輪をどんどん広げてみてください。

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2007年8月 9日 (木)

ゴールドマン・サックス・ジャパン・ホールディングス 人事部 ヴァイス・プレジデント 福本 多起さん

ダイバーシティがもたらす多様な社会と働き方

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私はゴールドマン・サックスのダイバーシティのマネージャーだが、本来はトレーニングを本職としている。今日は、私のキャリアの話と共に、どんなことが世の中で起こっているか、ダイバーシティとは何なのか、私たちはどうしたらもっとよい社会を作っていけるのか、皆さんと一緒にディスカッションしながら考えてみたい。

予定になかった「キャリアウーマン」の道
スライドを作りながら、私のキャリアを振り返ってみた。学生の頃、早く結婚して家庭の主婦になることを望んでいたのに、どうして、このように「キャリアウーマン」になったのか自分でも良くわからないでいる。当初の予定では今頃は高校生くらいの娘がいるはずだったのに、予定は上手くいかなかった。学生時代はテニス・スキーに明け暮れる日々を送っていた。その頃、仕事に関することと言えば、東大で秘書をしていたくらいで、友人が「あなたが働くなんて周りにご迷惑だからやめなさい」なんていわれたりした。それほど、お気楽な生活を送っていた。

エントリージョブから、運あってトレーニング・スペシャリストに
25歳で、初めての仕事として、国際航空貨物会社、フェデックスのカスタマー・サービスに入った。そこで、貨物の追跡や、電話の応対などをしていた。当時、教育部門のトレーナーがいて、「これからベルギーに会議に行くの」と、颯爽とかばんを持って出かけていく姿を見て、あまりにもカッコウよいと思い、恐いもの知らずで、私もトレーナーになりたいと手をあげた。運よく採用されて、カスタマー・サービスから、トレーニング・スペシャリストになることができた。そしてカスタマー・サービスの電話応対スタッフや、配送車のクーリエ(運転手)のトレーニングをすることになった。

パスポートを持って出勤するトレーニング・マネージャー時代
28歳の時に組織変更があり、タナボタが起こった。直属の上司の担当地区が切り離され、私とシンガポールにいた同僚が、マネージャーになることになった。当時、4人の部下から始めたが、皆年上で、いままで、友達感覚で付き合っていた人たちが、私の下になったわけなので、とてもチャレンジングな経験だった。そうこうするうちに、トレーニング部門が大きくなっていき、担当地区も西はドバイ、南はオーストラリアまでカバーすることになり、部下が20人くらいに増えた。部下は「多国籍軍」で、中国人、韓国人など多様な文化を背負った人たちがいた。中国系の人たちは、給料のネゴシエーションをするのがとても上手だった。いろいろな価値観の人がいて、とても良い勉強になり、また面白い経験をした。毎日パスポートを持って仕事に行くような日々で、フェデックスの貨物機で出張し、コックピットやその外にあるジャンプシートで飛び回っていた生活だった。

人事部長をしながら気づいた自分の好きな仕事
そうこうしているうちに35歳で転機があった。女性は30過ぎると、プロフェッショナルの道を進むかどうか、岐路に立つと言われる。私の場合は鈍感なので、そんなこともとりわけ考えてもいなかったが、フェデックスの人事部長がいなくなったので、代理を引き受けて欲しいといわれて、兼任する羽目になった。フェデックスは外資系大企業なので、その人事部長を努めることは、とても恵まれていたと思う。ただ、人事部長を兼任しながら、自分で気がついたことは、自分はいわゆる人事問題に取り組むよりも、トレーニングが好きだという事だった。

「生き馬の目を抜く」外資の金融業界への転職
同じ35歳の時、モルガン・スタンレーから、転職のお誘いがあった。社内の先輩に相談したところ、金融業界は生き馬の目を抜くような大変な業界だから、フェデックスで、キャリアを積んでいくほうが良いのではないかと言われたが、思い切って転職をすることにした。そして20名の部下を率いるマネージャーから、たった3人のチームに移った。この時キャリアは登山電車のごとくスウィッチバックを繰り返しながら、地道に積み上げていくものだと考えた。

39歳の時、同じ金融業界のゴールドマン・サックスから、転職のお誘いを受けた。ゴールドマン・サックスは、いわゆる「はげたかファンド」のようなイメージのあるところで、最初はその気はなかったが、あまりにも、何回も誘ってくれるので、ふっとその気になって、ゴールドマン・サックスに転職をすることにした。入社してみるとゴールドマン・サックスはチームワークを大変重んじ、人材を大切にするとても働きやすい会社であることが分かった。ゴールドマン・サックスでは、結果を出すために、120%の力を出し、人一倍の努力をした。40歳の時に、ダイバーシティ・マネージャーも兼任して欲しいといわれた。仕事量はますます増えるかもしれないが、自分にとっても良い勉強になるのではないかと思い、引く受けることにした。これにより、将来的に、キャリア選択の幅が出てくるのではないかと思った。現在は、トレーニングとダイバーシティ・オフィサーと2足のわらじを履いている。機会を与えてくれたゴールドマン・サックスに感謝している。

皆さんの「ダイバーシティ度」は?
ここで、皆さんに質問を3つさせいただく。
第一問は、「女性は男性と同じリーダーシップの役割や責任を担える」と思うか?
第二問は、「フレックスタイムで働いている人も、週に5日働いている人と同様、会社に貢献できる」と思うか?
第三問は「私と同性である上司がゲイ・レズビアンでも心地よく仕事ができる」と思うか?

ここにいる皆さんはポジティブな方が多いが、同様の質問をするとさまざまな答えが返ってくる。第一の質問に、ポジティブな答えを出す人は、男性でも女性でも能力は個人差の問題と捉える人が多い。逆に日本企業で働いている人や、女性の上司と働いたことのない人からは、ネガティブな答えが帰ってくることが多い。また、第二問に対しては、職種によるという事もあるかもしれない。ワーキング・マザーが現実は難しいとコメントするような場合もある。第三問に対してはゲイであれ、レズビアンであれ、それは個人の嗜好であり、本質的には仕事とは全く関係ない。

ダイバーシティとは何のこと
ダイバーシティのコンセプトは米国から出てきた。その背景として、いくつかのターニングポイントがあったとされている。たとえば、1960年代の公民権運動や、ウーマンズ・リブ、70年代のアファーマティブ・アクションなどが下地になっている。そして80年代には、ダイバーシティ、つまり、多様性の積極的な受容が唱えられるようになったという。1987年にアメリカ労働省が「Workforce 2000」というレポートを発表しその後多様性のマネジメントの重要性が活発に論議されるようになったと言われている。よく日本はアメリカより40年遅れていると言われているが、アメリカの背景を考えるとなるほどと思う。

さて、Loden MarilynのImplementing Diversity, 1996 Business One Irwin p.16によると個人の「多様性」には、2層あるといわれている。日本では、多様性というと女性などマイノリティを受け入れることと短絡的に考えられがちだが、目に見える表面的な多様性だけでも、ジェンダー(社会的な性差)のほか、年齢、人種、民族的な伝統、心理的・肉体的な特性、また、性的嗜好が挙げられる。さらに一見では分からない多様性もある。たとえば、教育、宗教、仕事経験、出身地域、家族状況などが挙げられる。

ダイバーシティの推進とは、このような個人の多様性を積極的に受け入れ、このような要素によって人を差別せず、平等な機会を与えるという事だ。

ダイバーシティが求められるWeb2.0時代
なぜ、多様性がこれほどまでに求められているかと言えば、インターネットがもたらしたグローバライゼーションの波が挙げられる。今は、Web.2.0時代と言われ、ますますネットによる情報伝達が進化している。だから国際化はこれからもますます促進されていく。こういう時代では、企業が活動する市場や顧客も多様化するわけで、そういう時代にあった多様な人材が求められるのは当然の成り行きといえる。実際、有能な人材の獲得競争は熾烈で、多様で有能な人材を確保することは、企業の発展につながる。また昨今はコーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティ(CSR、企業の社会的責任)が問われてきている。ダイバーシティを積極的に受け入れ、推進することが、現在の日本におけるCSRの一環になっていることが多い。

ダイバーシティ・マネージャーの職務とは
ゴールドマン・サックスではCSRの一環としてダイバーシティーの重要性を歌っているのではなく、企業戦略として捕らえている。よって本社のトップを始めシニア・マネジメントがダイバーシティー推進にコミットしている。弊社では性別の問題だけではなく、それ以外の多様性に関すること全てに取り組む努力をしている。
ダイバーシティー・マネージャーとしてはまず問題定義が挙げられる。何が問題であるのかを把握しそれを明確化し定義する。そして、ダイバーシティの促進により、それをどのように解決・改善すべきかゴールを設定する。実践するに当たっては、まず、シニア・マネジメントが率先してダイバーシティを奨励することが何よりも大事なので、彼らの関与を促し、それにより、全社員が参加できる仕組みを作っていく。ダイバーシティ・マネージャーは採用活動にも関与して、ダイバーシティの実践を担保する。また、昇進がフェアに行われているかどうかモニターし、離職率を下げる努力を行う。ダイバーシティのコンセプトの促進のために、イベントを企画・運営し、ネットワーク活動も行っている。各部門の置かれた状況を分析し部門長と話し合ったりもする。こういう活動を通じて、企業の力を強め、社内外でより風通しがよく、よりフェアな環境を作り上げていくのがダイバーシティ・マネージャーの職務だと考えている。

私自身のワークライフ・バランスは
個人のワークライフ・バランスとしては、徹底的な優先順位づけをしている。すべてをすることができないのだったら、優先順位をつけ、優先度の低いことができなくても、それで良しとする。自分が困難な状況に陥ったら、その状況を、上司、メンターと率直に相談し、同僚や部下にも説明をする。そうすることで、周りの理解を得ることができる。また、自分が最も効率よく仕事できる時間や方法を知り、場合によっては家で仕事をする時間を作る。以前、日産のカルロス・ゴーンさんが、クオリティー・オブ・タイムという事を話していた。仕事が忙しく家族と一緒に過ごせる時間が少なくても、彼はその少ない時間を大切に過ごし、質の高い時間を確保しているという事で、私自身、この考え方に大いに賛同している。また、優先順位づけに繋がるが、私の住んでいる渋谷区は、家事のアウトソースのサービスを受けられるので、掃除などをお願いしている。自分でも頑張ればできることだが、その時間を優先順位の高いことをするようにしている。要するに自分で無理をしてでも何でもするというのではなく、自分がすべきこと、しなくてはいけないことが何かを考えてあまり頑張りすぎずに仕事をしていきたいと思っている。

私が励まされる言葉
アメリカの作家、マーク・トウェインの言葉は私の座右の銘だ。彼は次のように言っている。If you think you can, or you think you can’t, you are probably right. できると思えばできるし、できないと思えばできない。これは真実だと思う。駅で電車が来そうな気配がした時、乗ろうという強い意志があれば間に合うだろうし、次でいいか・・・と思えば乗れない。仕事も全く同じと考える。また婦人服の有名ブランド、ドナ・キャランを作り上げた米国タキヒョー会長の滝富夫さんの言葉はいつも私を力づけてくれる。彼は「服をディスプレイする時も影をつけなければ立体感が出ないし、いい服に見えない。人の人生も同じだ」と語っている。私自身、どうして、こんな苦労をするのかと思ったこともあったが、それが私の人生に立体感を与えてくれているだと思っている。

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2007年8月 5日 (日)

リクルート進学カンパニー エグゼクティブマネジャー 野嶋朗さん

あなたの意識が会議を変える
チームパフォーマンスを高めるための
ファシリテーション力アップ法
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私はキャリアカフェでコミュニケーションの講座を担当しているが、本業はリクルートの進学カンパニーという所で、高校生向けに大学、短大、専門学校の情報を提供する事業のカンパニーボードの仕事をしている。働き始めて20年、その間、多くの人と仕事を一緒にしてきた。またリクルートはスピードが速く、コミュニケーションを大事にしている。そんな中で学んできたことを、まとめて皆さまをシェアしたいと思っている。

コミュニケーションは技術だ

技術は磨ける。だからコミュニケーションは磨くことができる。磨き続けることにより、いろいろなチャンスが生まれてくる。ファシリテーションとは先導する、司会進行を行うなど、いろいろ解釈ができるが、語源的にはラテン語のファシリス(facilis=たやすい、容易)にate(=可能にする)を加えたものである。「合理的な結論・合意形成を図る」が私には一番しっくりする説明だ。

このファシリテーションの力が上達すると、集団による知的な相互作業を促進することができる。つまり、次のような集団の力学を変化させることにつながる技術といえる。生産性の低い集団、業務的な仲の悪い集団、ホスピタリティの低い集団、バラバラ集団、身勝手集団、アウトプットの質が悪い集団、答えの出ない集団、決まらない集団など。このような集団は、居心地悪くこういう会議に出ると嫌な気持ちになる。

よいファシリテーションは、生産性を向上させ、お互いの関心を高め、意思決定を迅速化し、相互信頼・コラボレーションを醸成し、方向性を一致させる。そして集団の健全度を高め、メンバーの気分をよくすることができる。ファシリテーションは「段取りの力」、「仕切りの力」とかいう言い方をすることもできる。

「仕切り」という概念は最近、「導く」という概念に変化している。その背景には小さな組織でも大きな組織でも、意思決定の機会が増加し、異分野の協業により何かを作り上げたり、現場からの材料やアイディアを集積したり、文系や理系に限らずいろいろな分野にまたがる学際分野の仕事などが増えているためといえる。こういう場合には、単に仕切るというよりも導くという事が重要なこととなる。

本題に戻るが、良いファシリテーターとは力をあわせて共通の目的を達成することを容易にする。そしてその対象は集団だ。コーチングと比較すると良くわかる。ファシリテーションは集団が対象であるが、コーチングは何かの課題や目標にむかって個人が動いていくことを支援する行為であり、違う目的を持っている。

ファシリテーションは3つの集団・領域がある。まず市民活動における社会的な合意形成の領域。日本でもようやく市民活動が活発になってきているが、そこでは企業と違った利害が働き、合意形成はなかなか大変で、そんな点からファシリテーションの重要さが注目されている。それから、組織・企業においてパフォーマンスを高めるための合意形成の必要性。私自身は、一番慣れている領域である。そして学習系としては学校での教育・学習の領域で、生徒の意欲を高めるために、教室という場の中で、教師のファシリテーション力を高めて行きたいという必要性が背景にある。共通していることは、中立的なスタンスで場を作って、グループ内のコミュニケーションを促進するという事だ。

簡単にキャリアストーリーを

以上が今日の話のサマリーであるが、今日はキャリアカフェなので、ここで私のキャリアを簡単に説明する。(野嶋氏のキャリアの軌跡に関してはキャリアカフェパートIの5回目の講義録を参照。)若いうちはコミュニケーションなど意識することもなく、説得やシナリオに頼ったりしていたが、組織を担当するようになってから、チームを指揮したりとか、マネジメントを経験するようになってコミュニケーションについて考える機会が増えた。年を取るに従い、人を元気にすることとか、場づくりとかを意識するようになった。さらに組織の活性のためには、ビジョンの発信、メッセージの浸透などを通じ、モチベーションを高めないとパフォーマンスが上がらないという事に気がついた。現在43歳になったが、いかに明確に説明をするかとか、新しい価値観をどのように作るかなどについて意識して仕事をしている。35歳から40歳くらいまで、修羅場体験もあった。コミュニケーションを技術だと意識をした頃から、コミュニケーション力は上がっていったと思う。

今日の本題のファシリテーションについて

ファシリテーションは会議での合意形成のために必要だが、会議とは、3人以上の人が集まり、協力して作業をすることであり、良い会議を行うためには5原則がある。

1. 一つの議題に集中する。

人は思ったことを言いたい、ある発言で、ガラっと場が変わってしまうことがある。

2. 議事運営方法にメンバーが同意している。

この会議の目的は、決定するためか、議論をするためかなど、皆が理解しているか。

3. オープンでバランスの取れた発言が交わされているように運営されている。

偏った誘導や、特定の意見が取り入れらたりすることがないようにする。発言量の少ない人の意見が反映されているか気を配る。

4. 個人攻撃を受けた人を守る役割の人がいる。

個人攻撃ではなく、その場の課題の指摘だという事に置き換える役割の人がいる。

5. 会議における役割が明確でメンバーが同意している。

進行役、意思決定者、書記が誰であるか皆、理解している。

会議の成否を図る基準

一つは結果であり、もう一つはプロセスがある。結果として、問題は解決されたか、期待値調整ができたか、意思決定ができたかなどが成否の基準となる。プロセスとしては、どのように解決したか、結論を導き出したか、モチベーションが上がったか、多くの意見を出し切ったかなどが成否を決める基準として挙げられる。

会議の成否と組織への影響

会議が上手く行かないと、参加者の意欲が低下するばかりでなく、職場やチーム全体の意欲が低下する。無駄な時間が増えることで職場の緊張感がなくなり、一部の人の感覚が基準になり、本質的な問題が見えなくなり、場当たり的対応が増える。特に役職者が集まる会議であるほど、会議の成否が組織全体に影響を与える。会議の質は組織全体の健全度の指標ともいえる。

ファシリテーター不在の損失

ファシリテーターが機能していないと、大声で発言した人が発言権を得たり、揚げ足を取る人が現れたり、発言のチャンスを得るためにエネルギーを消耗したり、部下は上司の顔色をみながら聞きたいことのみ話すようになったりする。これは組織にとって大きな損失だ。

よいファシリテーションのポイント

最初にゴールを示すこと、中立的なプロセス管理を行うこと、チームワークを醸成することなどがポイントになる。ファシリテーターが介入するのは、プロセスだけであるべきで、答はメンバーの中にあるという信頼を持ち、メンバーの気付きを促すような場を作る。そしてメンバー間の相互作用を起こす。

ファシリテーターに必要な力

聴く力、観る力、話す力・伝える力、感じる力が必要だ。発言したら聴いてもらえるという信頼感が発言を促す。話の腰を途中で折るような発言は、良いアイディアを生み出す土壌を壊す。またファシリテーターは参加者の表情を良く観て、発言に対する反応を読み取らなければならない。そして、分かり易い言葉に翻訳したり、質問は答えやすく聞き、現場感覚に沿った言葉で話すことが大切。現場感覚に沿った言葉で話せるためには事前にいくらかの宿題をしておくべき。さらに場の雰囲気やメンバーの気持ちを感じ取ることが必要。感じる力は観る力と近いものがあるが、なぜ、盛り上がらないのだろうか、なぜ、黙っているのだろうかなど、背景の思いを類推する力が大切。

困った会議

停止の会議/同質の参加者、予定調和の会議だったりすると、会議は前に進まず停止する。会議が停止してしまったら、別の角度から発言できる外側のメンバーをいれ、ちょっとしたあら捜しをするメンバーを作る。あるいは、地位の高い人の発言は抑えてもらう。

沈黙の会議/理解が浅くて発言できない、筋道が良くわからない、発言で自分が不利益になる場合など、会議は沈黙する。その場合、グループ討議など小さな会議に変えてみたり、どうして発言しないのかと突っ込んでみたり、あるいは誰かが発言するまで我慢比べをしたりする方法がある。

脱線の会議/声の大きい人、無理解な上司、現場知らずの人たち、非難されたくない人たちなどが話を脱線させた場合、勇気を持って話をさえぎり軌道修正する。また、議論したいポイントを示す、時間や場を変える、構成メンバーを見直すなど、一服入れるのが効果的。

混乱の会議/発言を独占する人、議事妨害をする人、個人攻撃をする人、評論家、あるいは同じことを繰り返す人が現れたりすると会議は混乱する。その時は、手際よく話をさえぎる勇気が必要となる。建設的な意見衝突への切り替えや、プラス思考の雰囲気を創ることが大切。混乱キーマンに対して、ある程度個別対応が必要。

ファシリテーション上達のヒント

よい参加者の心を知る。人の言っていることをきちんと受け止めるスタンスが大切。また、座る場所を意識する。座る場所で派閥ができる。なるべく、フラットに派閥ができないように席にも気を配る。また発言者のあら捜しをしない。最初の印象のみで、すぐに評価しない。良い点を見る努力をする。批判されてもめげない。自己弁護しない。

ブレストで訓練するコツ

少人数のブレストで訓練することがファシリテーションの上達に役立つ。

1.テーマを周知すること。このブレストで話したいことを明確にする。

2.問題や話の内容を具体化し映像化する。リアリティを高め場を盛り上げることができる。そしてブレストは創造的な空間となる。

3.タイムマネジメント。たとえば30分でよい意見を出すということを目標とし、逆算でプロセスマネジメントをする。これは大きな会議でも有効なマネジメントだ。

4.話をさえぎらせない。特にブレストを活性化するために、話は決してさえぎらない。参加者で言いたいことが重なる場合があるが、話をさえぎらずに上手にマネージする。

5.アイディアだしを刺激する。話を停止させないためにも批判させない。

6.常に前向きな場を作る。アイディアを出すブレストの場合は、沈滞したり停滞したりしがちなので、励まして、刺激を与え、前向きな空間を作る。

7.想像力を刺激する。個人の中から大事なものを引き出すようにつとめる。

8.書記をサポートする。会議とファシリテーションの質を高めるためには書記が重要。決まったことを確認し、誰が何を発言したか記録するため書記は非常に大事である。ファシリテーターは書記と連動すると有効。

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2007年7月29日 (日)

パートII第6回 NGO熱帯森林保護団体代表 南研子さん

アマゾンから見える地球の危機
今、私たちにできることは何なのか

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長く続いた自分探し時代
最初に私のキャリアのことを簡単に。高校は公立だったが、その時の教師、片桐ユズルという人に影響を受け、美術大学に進んだ。美大では油絵を勉強した。私は今年還暦を迎えるが、学生の頃は学生運動が盛んな時期で、女子ばかりの美大ではあっても当時ノンポリでいるということにも少しは頑張らなければならないような時代だった。多少なりにも世の中に対する興味はあったし、社会に「モノ申したい」という気分も持っていた。四年の時に時間があったので、アルバイトという事で、NHKの「ひょっこりひょうたん島」、「お母さんと一緒」、「みんなの科学」などの美術制作にかかわった。確かにお金にはなったのだけど、夢を売る仕事のはずが、その内側は使い捨ての消費の世界で、それにうんざりしてやめた。生きるとは?消費とは?というようなことに疑問を抱くようになった。丁度その頃結婚し、自給自足の生活に憧れ、八王子の田舎の築200年の家に住んだりもした。つまり、長らく自分探しをしていたといえる。私は何でこの星に生まれてきたのだろうか。一体どうやって生きていったらよいのだろうか。あまりに悩みすぎて、結婚と同時に自殺未遂のようなこともした。若さゆえとはいえ、一通りのことをいろいろとした。八王子で生活は、家が家事で焼けたと同時に終わりになった。

ラオーニとの出会い、そしてアマゾンへ
そうこうしているうちに、41歳の時、イギリスのスティングというロック歌手が、アマゾン先住民カヤポ族の長老ラオーニと共に、「アマゾンを守ろう」という世界ツアーの一環で日本に来た。友達に頼まれるままにボランティアで、スティング一行の手伝いをした。彼らが帰る時、カヤポ族の長老、ラオーニと握手をした。その時、アマゾンの風を背中に感じた。見たこともないアマゾンの風景を感じさせるほど、私に伝えた彼のエネルギーはもの凄く、これはいったい何なのだと思った。こんな経験は初めてだった。これをきっかけにアマゾン支援に入っていったわけだが、私たち先進国の人びとが享受している便利で快適な生活が、一方でアマゾンの生態を壊しているというスティングやラオーニの話に心を痛めたこともあるけれども、ラオーニが与えてくれたあのもの凄いエネルギーはいったい何なのだ、それを自分の中で確認したいという思いもあって、この仕事を始めたという面もある。

そして1989年にNGOを立ち上げて、以来、アマゾン支援を行っているが「いいことをしている」とは全然思っていない。私は先進国で生まれ、アマゾンの状況を知ったものの責任だと思って活動を行っている。約18年間で、21回この地に入り、延べ数にして、2000日以上、アマゾンで過ごしている。私は不器用なので、人から聞いたことを伝えるのは得意ではない。もしかして私が見落としていることはたくさんあるとは思うが、自分がしてきたことのみ話すことができると思う。

アマゾンの生活と支援活動、そしてそこで感じたこと(スライド補助)
私はあまり、筋道たって話をするのが苦手なので、写真をお見せしながらお話しようと思う。ブラジルは日本の23倍。私たちの支援対象地区は、日本の本州と同じくらいの大きさで、そこに18部族約20000人インディオと呼ばれる先住民が暮らしている。私たちは1989年より、アマゾンの自然の保護と、先住民の存続支援を行っている。

最初にアマゾンに向き合った時、そして緑の絨毯に大きな蛇が悠々と移動している景色を見た時、涙が出た。同じ星でもこのようなところがあるのだと、心が震えた。生物が自由に、美しく、プライドを持って生きている。生物は自然の中でこそ生きられるという事を実感した。アマゾンは人間の小智才覚など通用する所ではない。ジャングルは緑の脅威ともいえるが、私はこの星には無駄なものは何もなく、本来、さまざまな命がバランスよく生きていくようにできていると思っている。人間は万物の長であると驕り、自分たちに決定権があり、人間本位に生きてきた。特に北の世界の人間は便利で豊かな生活を維持するのに具合が良いように生きてきたのではないか。自分もそう生きてきた。でも、アマゾンの自然に相対すると、自分の無力感を感じた。そして、私たちの便利な生活の裏で、南の人たちにご迷惑をかけていることを知った。

アマゾンの先住民社会はそれだけで完結している。彼らの暮らしは限りなく石器時代に近い。電気、ガス、水道、お風呂、何もない。けれどもアマゾンでの暮らしには、虐待、いじめ、差別、心の病気、認知症、自殺など、現代社会のもっている病気もない。泥棒も殺人もない。この社会を見ると文明の進歩とは一体何なのかと、私自身に問い続けている。便利な社会にはなっても、それに反比例して、人の心が欠落していく社会を推し進めているのではないだろうか。ここの人たちと暮らしてそういう事を考えた。

インディオは恵まれていると思う。こういうところで500人くらいが集落を作っている。ここで暮らしていろいろなことを学んだ。人間も動物であることを実感する生活である。住民が500人以上になると、食べ物、排泄などの理由から、問題が出てくるので、村を移す。500人というのが集団で暮らす最大値といえる。この大きさだと、個人の心の動きがわかり、個人と集団の関係性、あえて言えば絆をきちんと確立できるサイズなのだと思う。

これが彼らの家だ。一辺が大体30mくらいのかなり大きな家だ。この家を見た時、妙に懐かしいと思った。日本の昔の農家に良く似ている。この社会は母系で、女の子が生まれると、男の子がお婿さんに入る。女性が主権を持つと世の中が上手く行くような気がする。ここには文字も貨幣もない。だからお金のために働く必要もない。男の人の仕事は、家を作ったり、魚を取ったりすることなどだ。

ここで大体20家族くらいが住んでいる。異文化の地域に入ったとき、彼らがどういう問題を抱えているか最初にみっちり話す。アマゾンのジャングルというと、映画で見るような素敵なおとぎの世界のように聞こえるかも知れないが、実際は非常に過酷である。虫やブヨがたくさんいて、一回行くと300箇所くらい刺される。お風呂とトイレがリラックスするものだという考えはアマゾンで吹き飛んだ。トイレをしていても、虫がザーッとあがってくる。スナダニは小さくて爪の間に入る。爪の間に入ったスナダニが大きくなって痛くなるのだが、それを取るのは、「なぜ、アマゾンに来てしまったのだろう」と思うほど、痛くて辛い。アマゾンでは巡回でまわってくる看護婦はいても、集落の中には医者はいないので呪術師が医者の代わりをする。呪術師のすばらしい人は、薬草を6000種類くらい見分けることができる。スナダニが爪と指の間に入った時、屈強な若い男性が私を両側から支え、呪術師が包丁の先のように研いだ黒曜石で、私の足の先を切った。その時あまりの痛さに失神したのだけど、両側の男性が私を支えた。この時以来、私は自分でナイフや爪切りバサミで爪や肉を切り裂いて始末している。

こういう事を通して感じることは、「自然との共生」とか「自然にやさしく」という言葉は人間のおごりを表しているという事だ。私は「自然への服従」しかありえないのだと思う。そして、自然への服従を前提にすれば、温暖化や異常気象に面した時、その認識や対応の仕方を考え直すことができるのではないかと思う。

彼らの生活を簡単に紹介したいと思う。私たちの生活と対比することでいろいろなことを学んだ。私たちは食材を日々、何10種類か食べようとする。彼らの食材は種類が非常に限られている。これは山芋に似たもの。それをすってクレープ状にしたものを主食として食べる。

これは魚。乾季の時は水位が下がるので魚は豊富だ。私はエボダイが大好きなのだが、ピラニアはエボダイに似て肉厚でとても美味しい。でも恐いのは、釣って30分くらいして、もう大丈夫と思って触るとガブッとかまれたりする。インディオの人も指が一本、2本ない人がけっこういる。お祭りの時などこういう形で燻製にして日持ちをよくしている。

これはサル。このサルを私は生きている時から知っていた。このサルは木で日向ぼっこをして気持ちよさそうに寝ていた。インディオが矢を放って、木から落ちたサルをずるずると引きずってきて焼いた。このことで私たちが日々食べているものは、すべて命があるものだという事を実感した。文明社会では、食物がどういうプロセスを通って食卓にもたらされるか気がつかないような仕組みになっている。私たちは他の命を絶って、自分の命を永らえていることにあまりにも無関心だ。ここに暮らしていると、どういうプロセスで食べ物が口に入るようになるか、嫌がおうでも、それなりに分かってくる。今どきの日本の子供は、かまぼこが海で泳いでいるような絵を描くというが、日本の子供たちを、こういう所に連れていきたいと思った。アマゾンでは子供たちが、サルが殺される所からすべて見ている。サルの命も自分の命も、同じ命だということを、言葉でなく実感として知っている。手許に来るものに対して、小さい時からそれを見る機会が多ければそれだけ、いろいろなことを考える機会があると思う。恥ずかしながら、私は40歳を超えて始めて、自分が日々生きているのは、他者の命を絶ってそれにより自分の肉体を維持しているからだという事を意識した。私は、支援活動という事でアマゾンに入っているが、個人的には、アマゾンのジャングルの中で、この星でどのように生きていくかという事を日々、考えさせられる経験をしている。 

これはトイレに行く時の写真で、獣道を歩きながら手を振っているが、実際はこの茂みから何が出てくるか分からない。川辺から遠い集落の場合は、水浴びに行くにも4km行った時は、4km戻ってこなければならない。帰ってきたときは汗だくになっていることもある。こわごわと大変な思いをして、川に水浴びに行くのだが、不思議な経験をした。川の中では、水がもの凄いエネルギーとなって、全身の毛穴から入ってくることに気がついた。水の力はすごいもので、どんな疲れたときでも、水浴びをすると元気になる。

これはインディオたちの写真だ。インディオの人たちは、15000年前に、ベーリング海峡を渡って、南米にたどり着いたといわれている。自慢になるがこの写真を撮るのに10年かかった。ある意味で如何に、現地の人が他からの人を信頼していないのかがわかる。文化の違うところで支援をするという事は、時には相手のご迷惑になることもある。自分の価値観を他者に押し付けないことは大切だ。理解をしようなんて思うことは上から見下した考え方だと思う。ではどうするかというと、違う価値観をそのまま受け入れるという事だ。丸ごと受け入れれば、相手もわかる。このことは支援活動のみならず、人とのかかわり方にすべて言えることだと思う。500年前に、ポルトガル人が侵略した時に、900万とも、1000万人いたといわれる先住民が、今は32万人に減っている。ブラジルの繁栄の底辺には、インディオたちの血と涙があると思う。先住民の彼らは外部から来た人に対して、非常に警戒し、信頼関係を作るまでに、10年かかった。私は最初に行った時に、一緒に暮らしてみなければ、支援ができるかどうかわからないと告げたが、正直であったことが、彼らの信頼を得たのかもしれないと思う。18集落を全部網羅することは難しい。この集落には無線機、エンジンが必要だな、と自分で納得してから支援してきた。話が長くなったが、女の人と子供が警戒心なしにこのように、写真に納まってくれるのはその信頼関係の結果だと思い、嬉しく思っている。

これは子供たちの写真。私が子供の時は、あかぎれとかしもやけはあったけれどアトピーはなかった。インディオの子供もそうで、ぐちゃぐちゃでドロだらけで頭にはしらみがたくさんいるけれど、彼らはとても元気だ。日本に帰って、こぎれいに小さいところで遊んでいる子供たちをみると、もっと広い所で遊ばしてあげたいなあと思う。

これは私自身の写真。アマゾンにいると鏡を見ることはないし、ワンピースも着たきりすずめなのだけど、写真を見ると、日本にいるときよりも10歳くらい若く見えると思う。アマゾンにいると、緊張と弛緩があり、常にある種の本質的なことを考えさせられ、いつも決断しなければならない状況なので、ある意味で緊張や張りがあり、それが顔に出ているのではないかと思う。

今までアマゾンに21回入って、その間、だんだん彼らが服を着るようになってきた。というのは先住民の社会にも、ブラジル社会、特にキリスト教の影響が強くなってきていて、彼らは服を着ないと恥ずかしいと思うように追い詰められてきているのだと思う。彼らの集落の中には貨幣制度は入っていないが、支援対象地域の外は、すでに貨幣経済なので、彼らだけが裸で貨幣を使わずに生きるという状況にいられるのもあと、1、2年なのではないかと思う。

これは死者を祀る時の写真だ。彼らの社会にはアミニズムが浸透している。日本の自然崇拝にも似て、彼らは本来、天に住んでいたが、下を見ていたら面白そうだなと考えて、下界に下りてきたと信じている。下では形が必要なので、肉体を着た。でも肉体は限度があり朽ちてしまうので、朽ちた時が私たちがいう死であるが、本体は天に戻っていく。だからそれはめでたい門出という事で、他部族も招いて飲み歌い、霊を天に送る。

アマゾンには寝たきりのお年寄りがいない。私はなんで、アマゾンには日本社会で私たちが直面する問題がないのだろうかと考え続けている。日本の医療で必要なのはハード面よりもソフト面なのではないかと思う。アマゾンでなぜお年寄りが元気かというと、彼らは文字を持たないので、口承で文化を伝えていく。お年寄りの役目は、言葉で伝えていくことなのだが、文字がないことによってもしかして脳の使い方も違うのかも知れないと思う。

アマゾンの世界は私たちの世界と違って分断がない。私たちの世界では、職業、富などにより、すべてに対して区別するが、ここの人は何も分けない。目に見えないことに対しても分けない。これは水の精霊なのだけど、こういう形で人間は水に対して感謝の念を表す。精霊信仰により、自然に対して畏敬の念を持ち、人間がどのような形でその空間にあるかという事を知り、それを感謝している。私たちはすべてのことに起承転結を求めるが、彼らは今という時を大事に生きている。彼らには悲しみとか、幸せ、喜びという言葉はない。怒ったり、泣いたりという行為はあるけれど、言葉の中に、幸せとか悲しみというコンセプトはない。ある部族の言葉は過去形も未来系もない。

これは野生のカピパラの赤ちゃんなのだが、親と離れてしまったので、集落の人が助けて、大きくなると森に返す。これは豹の赤ちゃん。お母さんと離れて、インディオの人たちに助けられ、森に戻っていく。インディオの人たちは本能的にどのように森を保ち活性化していくかを知っているように思える。これはアリクイ。一度、森が焼かれて逃げ惑うアリクイを見たことがあるけれど、一体このようなことを誰がしているのだと、追い詰めて考えていった時に、私自身に戻ってきたことを覚えている。これはナマケモノで、彼らは本当に歩くのが遅いのだけど、この爪が面白い形をしているので乱獲されてしまった。アマゾンにはたくさんの生物が生きている。私はアマゾンに入ると、まず、五感がさえてくる。人間の本能が蘇るような気がする。生きるという力が出てくる。このさそりに刺されたら、10mくらいの蛇でも死ぬといわれているが、アマゾンに居ると足の裏に目があるように感覚が研ぎ澄まされる。

これは、アマゾンの森が焼かれて失われていく写真だ。この光景を見た時に広島の原爆を思い出した。森が焼かれる臭いや風を伝えることができないのは残念だが、煙で目を開けていることすら辛い。このような形で森が焼かれていく。なぜ、このようなことが起るのかを考えてみたい。私たちの食文化で大豆は重要だが、それは2、3%しか国産でない。という事は97%が外国産ということだ。先ほども入ったように私たちは貨幣というベールを通してしかモノを見ないので、食物が口に運ばれるまでのプロセスを見ることができないが、こういう形で大豆が生産されているという事を知っておくべきだと思う。大豆の外殻は、鳥の飼料にされるが、日本の鶏の80%以上はブラジルから来ている。という事は、このようにアマゾンの森を壊して得たものを、それを私たちが食べているという連鎖が見えてくる。消費者自身が自分の口に入るものに対してチェックをすることが大切なのだと思う。

これは今、注目されているエタノールを作る原料のとうもろこしやサトウキビの畑だ。エタノールは日本でも売り出されている。確かに日本ではCO2は排出されないが、今、ブラジルで問題になっているのは、ブラジルが排出するCO2の75~80%が森を焼く時に出るCO2だという事だ。私たちは国境ということで、区切りをつけて考えるが、この星を一つだという観点から見れば、実は自分の首をしめ、次世代の命を削って、私たちが便利で快適な生活を追い求めているのではないかという気がする。

これは牧場の写真だ。アメリカでのBSEの問題もあり、牧場が増えている。そのためにアマゾンの森が壊されている。これはダムの写真だ。地下資源が豊かなので、アマゾンの森を壊し、私たちの手許に送られる。その際、枯葉剤を撒いたりして、森を壊し早急にダムが作られる。これは金。このような穴を掘って、金を摂っていく。

私たちの支援は換金作物の生産ではない。アマゾンの森の活性化と再生のための植林を行っている。特に、高級家具材のマホガニーの乱獲が増えているが、赤土になった所にマホガニーの苗を植え、自然の生態系の回復を図っている。先ほど話したように、いずれ、インディオたちも貨幣制度の波に飲まれる。その時、彼らが経済的自立を持ち、ソフトランディングができるように、作物を販売したりするような、パイロットプロジェクトも行いだした。また、外部からの来た人間が運んでくる病原菌に対して、彼らは免疫がないので、薬の支援を行ったりしている。

アマゾンの状況、インディオたちの生活や文化をより多くの人たちに伝えるために、彼らの伝統文化の紹介をサンパウロで行った。今年は、広島でも開催した。7月14日からは、66日間、川崎の岡本太郎美術館で、アマゾン展を開催する。岡本太郎の言葉と、インディオ人たちの写真のコラボレーション展だ。アートの切り口ではあるが、先進国の人たちの生活が、ある意味でアマゾンの人たちによって支えられているという事に関して、もう一度考え直す機会になればよいと思っている。

先日、私の人生を変えた先住民の長老ラオーニが再来日した。彼は、20年前と同じ警告を日本の人に発したが、一体この20年間、私たちは何をしてきたのだろうかと考えて、ちょっと落ち込んだりもしたが、今後も焦らずに、あきらめずに、アマゾン支援を続けていくつもりだ。

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2007年7月16日 (月)

パートⅡ第5回 LOHASプロデューサー 大和田順子さん

LOHASビジネスの始め方

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恒例により、私のキャリア軌跡をお話ししたいと思いますが、前回かなり詳しく自己紹介いたしましたので今回は簡単にいたします。(大和田さんのキャリアの軌跡については、第11回目の講義録を参照。)

この一年半、「自己実現から社会実現へ」、「自己利益から利他へ」をキモに命じて、やってきた。7月にはロハス・ビジネス・アライアンス(LBA)を設立する。これは何かというと、企業、特に中小企業でロハスに関心がある方がたの参加を求め、ビジネス・コミュニティを作り、そこで参加企業が共に学び、共にビジネスを展開するような仕組みである。同じ志を持った企業の顧客は、同じような価値観を有しているのではないかと推測しているわけで、もし、一社で1万人の顧客を有している会社が100社あれば、アライアンスを通じ、100万人の顧客を共有できるということになる。また、LBAではロハス講座を予定しているが、そこではミッション・ステートメントの作り方、ビジネス・モデルの作り方、商品開発の仕方、あるいは販売についてなど、ビジネスの様々な観点についてロハス・ビジネスならでは取り組み方法をロハス企業のトップに語ってもらう予定だ。今日の話はそのさわりを紹介することになる。

ロハスとは何か、そしてロハスはどこでどのように発生したかについて、また、ロハス・ビジネスと言っても実際にはどのような産業が含まれるのかについて、スライドを使用しながら説明したい。(第11回の講義録を参照)

国内外のロハス・ビジネスのカテゴリー別の事例としては以下のような企業が挙げられる。

分類1/ヘルシー・ライフスタイル

産業としては有機食品、サプリメント、パーソナルケアなど。事例:ホールフーズマーケット、大地の会、パタゴニアなど。

分類2/オルタナティブ・ヘルスケア

産業としては鍼灸、漢方、アロマテラピーなど、いわゆる統合医療。事例:トムズオブメイン、生活の木、ファルマカなど。

分類3/パーソナル・ディベロップメント

自己啓発、瞑想、ヨガあるいは旅など。このカテゴリーは、ロハスの心臓部分だと思う。事例:ガイアム、スタジオヨギー、各種セミナーなど。

分類4/エコロジカル・ライフスタイル

産業としてはエコ住宅、グリーン購入、エコツーリズムなど。事例としては三洋電機、星野リゾート、OKUTAなど。

分類5/サステイナブル・エコノミー

産業としては再生可能エネルギー、CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)、SRI(Socially Responsible Investment =
社会的責任を果たしている企業に投資すること。社会的責任投資)など。事例としてはサステイナブルインベスター、アミタ、小舟木エコ村などが上げられる。

企業がロハスであるかどうか、どのように評価したらよいのだろうか。私は、ロハス・ビジネスを選定するにあたって、全部でなくても、以下のような基準を満たしているかどうかを目安とした。

・ロハス的価値観をミッション・ステートメントに取り入れて企業活動を行っているか。
・顧客の健康に寄与する製品・サービスを提供しているか
・サステイナブル・エンバイロンメント、つまり持続性のある環境保全に役立つ製品・サービスを提供しているか。また、企業として環境対策に取り組んでいるか。ISO14000 の取得などはその一例。
・従業員の能力を活かし、幸せで豊かな生活やワークライフバランスが取れるような仕事環境を作るのに力を入れているか。米国企業はこの点は実践する企業が多いが、日本企業はまだ少ない。
・顧客やステークホルダーの共感・信頼を得るようなコミュニケーションを行っているか。売りっぱなしではないか。透明性の高い情報開示をしているか。
・社会問題や環境問題を解決するような社会貢献活動をしているか。

以上のような視点でロハス企業を選択しているが、上記のアメリカの企業は大体この基準を満たしている。いくつか例を紹介する。

・ガイアム:ライフスタイルメディアカンパニー。1996年にロハスを提唱。ロハス会議の開催、ジャーナルや通販カタログの発行、ネットでの商品販売、ライフスタイルの提案などを行っている。ヨガやフィットネスのDVDなどが売れ筋。顧客の8割は女性で、年収7万5000ドル以上の高額所得者。
・ホールフーズマーケット:オーガニックな農産物を扱うグルメスーパー。地域の農産物を扱い地産地消を唱えている。3割がオーガニックで7割が低農薬商品で、そのことを明示している。ビジュアルマーチャンダイジングがとても美しい。家庭のCO2排出を削減するために、「カーボンフットプリント削減キャンペーン」を通じて、意識喚起を行っている。最終利益の5%をNPO 等に寄付している。ちなみに、米国のオーガニック市場は2005年で一兆7000億円程度。2010年には4兆円サイズになるといわれている。日本では3000億円くらいの市場規模。
・ファルマカ:ボールダー発祥のドラッグストアで、西洋医療と代替医療サービスを統合した医薬品・関連商品・サービスを提供している。アーユルベーダやアロマセラピーとは何かなどについて、セミナーや個別カウンセリングを行っている。日本にはない業態で、誰か日本で始めないかなと期待している。
・パタゴニア:アウトドアウェアメーカー。この会社は日本にも支社がある。ミッション・ステートメントでは「ビジネスを通して環境の危機を解決する」とうたっている。1996年以来、オーガニック・コットンを使用し、ポリエステルのリサイクルを行い環境負荷低減に取り組んでいる。売り上げの1%を寄付している。高い社員の満足度を誇る。

日本の事例を紹介する。

・三洋電機:経営の危機に見舞われているが、2005年、再生を牽引する新ビジョン「Think GAIA」を導入した。新商品の充電池、「エネループ」はロハス層をイメージして開発された。1000回充電でき、“使い捨てでないライフスタイル”を訴求。この商品の売り上げは目標を上回り、新顧客を開拓した。
・生活の木:ハーブを広めて25年。アロマセラピーは日本で一番普及していると重永社長は言っている。ハーブを輸入し普及させるための新しいビジネス・モデルを作った。教室を通じ、お客と対話することでビジネスを伸ばしてきた。現在はアーユルベーダを紹介することに注力。
・OKUTA:自然派のリフォーム会社。シックハウス症候群などが社会問題になり、2002年に塩ビクロスの使用をやめた。結果は健康に留意する顧客が増え、客単価は以前の60万円から、600万円に上昇した。
・オーガニック農産物を扱う各社。大別すると4つのチャネルがある。
〈有機農産物の宅配サービス〉
 大地を守る会、8万人の会員。年商124億円。
 パルシステム
 らでぃっしゅぼーや等
〈自然食品店〉
 ナチュラルハウス
 anew
  ナチュラルハーモニー等
〈フードビジネス〉
 惣菜/ファストフード/レストラン等
〈量販店〉
・阪急泉南グリーンファーム(阪急百貨店子会社):3年前に設立した農業生産法人。関空近くに4000平米のハウスで、有機JASのサラダリーフを栽培。年間17回転という脅威の坪効率を誇る。いろいろな農法を研究し、堆肥つくりも自前で行っている。
・アグリス成城(小田急電鉄):線路の上に人口地盤で会員制の貸し菜園事業を開始。グリーンをテーマとしたエンターテインメント事業。日照も良く、富士山も望め、シャワールームも完備したクラブハウスではオーガニックビールを飲むことができる。道具は無料で貸してくれる。種や園芸用品も販売。

日本でロハスは終ったのではないかという声がある。確かに流行語としてのロハスは終ったかも知れないが、ロハスが示唆している価値観やそれに基づいたビジネスはなくなるはずもなく、日本でもロハスに共感する人たちがいるという事が顕在化した。企業としてもこういう人たちを無視することはできない。マーケティングで言うと、イノベーターといわれる先駆的な考えを持つ人たちと、ロハスに共感する人たちの層は重なっている。こういう事を考えるとこれから、ロハス的なビジネスが本格化すると思われる。実際、2007年には、大きな反響を呼んだ映画「不都合な真実」の公開からはじまって、ビジネス誌「オルタナ」の創刊や、ロハス関係の雑誌や本の出版が相次いでいる。

ロハス・ビジネスを始めるには、下記の5つの原則を考慮することが大切だ。
・ミッション(志・使命): ミッション・ステートメントには「サステナブルな社会の実現のために○○で貢献する」というように志を明確にする。
・経営者の価値観・理念:地球的視野に立脚し、地球人として行動する。
・経営方針:将来のビジョンの明確化、環境・社会的責任についての方針・計画を立てる。
・商品・サービス:原材料、プロセス、ストーリー性、デザイン性などに留意する。
・ステークホルダーとの信頼関係:共感、信頼、透明性が大事になる。

ロハス事業を開発するための7つのキーワード。
・「モノ」→「ココロ」
・「所有」→「共有」
・「無限」→「有限」
・「大量消費」→「必要かどうかを考える」
・「使い捨て」→「メンテナンスで長寿命」
・「量」→「質」
・家庭やコミュニティは「帰って寝るところ」→「暮らしの中心」

自然は待ってくれない。地球上のCO2は増え続け、温暖化のポイント・オブ・ノーリターンは、2016年頃と予測されている。私たちはこの10年、どのような暮らしやビジネスを選択するか問われている。また、政府は2050年までに、CO2の排出量を7割カットすると言っている。私たちは将来に向ってどんな低炭素社会を創っていくのか、考え方や、生活・家庭、経済・産業等に関してシナリオを開発する必要がある。ロハス・ビジネスは、本業を通じて社会の課題を解決することを目指し、サステナブルな社会の創造に貢献するビジネスである。

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2007年6月30日 (土)

パートII 第1回  富士フイルム株式会社 イソムラアユム氏

あなたのプレゼンは伝わっていますか?
~イソムラ式ユニバーサルプレゼンテーション~

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 私は、富士フイルムのデザインセンターで20年弱、プロダクトデザインをしている。今日の話の内容としては、業務や個人的な活動の中から感じたことのプレゼンテーションのノウハウを紹介したいと思う。私はそれを勝手にイソムラ式と呼んでいるが、文字に頼らず、ビジュアルから感じていただくやり方で、他にはない面白いやり方だと思っている。参考にしていただけたら幸いだ。本日は450枚程度のスライドを使用する。 最初に、そもそも私はどんなデザインをしているのかお話しする。ユニバーサルデザイン(UD)はキーワードで、本日のプレゼンの中に織り込んでいくが、それについての紹介をしたいと思う。また、プレゼンテーションやコミュニケーションは相手のことを知ることからはじまるが、これをサブテーマとしてお話ししたい。

本日のアジェンダ

1 ユニバーサルデザインとは、
2 私のキャリアストーリー 
  そもそもデザインとは
  ユニバーサルデザインとの出会い
  出版のいきさつ
3 イソムラ式プレゼンの紹介
  プレゼンテーションのノウハウを体系的にまとめもので、具体的に使えるエッセンスが盛り込まれている。
4 イソムラ式プレゼンのデモ
  スライド400枚をドンドンみせながら飽きずにビジュアル中心で楽しいプレゼンテーションを実際にお見せする。テーマは「5感を意識したデンマークのデザイン」で、デザインに興味のない方もこんなアプローチがあるのだな、と思っていただければよい。

1  ユニバーサルデザイン(UD)とは?そしてその定義とは?

 UDとはできるだけ多くの人が利用可能であるように、製品、建物 空間をデザインすること。ノースカロライナ州立大学のロン・メイスという方(彼自身も身体障がい者)は、公共空間は障がい者も対象に含めて、きちんとデザインを考えるべきと述べている。彼はポイントを7つ挙げている。

・ Equitable Use  (エクイタブル ユース) 公平に誰でもつかえること。

たとえば入り口は車椅子の人でも通れるように設計する。

・ Flexibility in Use (フレクシビリティ イン ユース)

使用する際に柔軟性があること。たとえば、右手でも左手でも操作を可能にするなど。

・ Perceptible Information (パーセプティブル インフォーメーション)

いろいろな知覚に訴えるデザイン。見ても、触っても、聞いても分かる情報。

・ Low Physical Effort (ロウ フィジカル エフォート)

体力をそんなに必要としないデザイン。たとえば、握力がなくても開けられるとか、鞄をもっていて、手がふさがっていてもひじで開けられるようなデザイン。

・ Simple and Intuitive (シンプル アンド インテュイティブ)

簡潔で直感的。文字で読ませるのではなく、シンプルに絵で表現する。

・ Tolerance for Error (トレランス フォー エラー)

失敗した時にやり直しができるようなデザイン。

・ Size and Space for Approach and Use (サイズ アンド スペース フォー アプローチ アンド ユース)

 誰でもがアプローチでき、使用できるように、充分なサイズとスペースがあること。たとえば、車椅子でも通れる改札口。 このような観点でデザインをすれば、できるだけ多くの人が使用することができるだろう。日本の例で言うとこのようなものがある。

・コクヨのはさみ、カスタネットのような形をしているので、手に障がいがある方も含め、いろいろな人にとって使いやすい。
・コクヨのマグネット。マグネットは強すぎるとはがすのが大変だが、このマグネットは曲がるので取り外しが簡単だ。
・オクソというアメリカ製の軽量カップ。目盛りは普通、横に表示されるが、これは上に表示されているので、上から見て分量がわかる。
・フジフイルムの「写ルンです」。握りやすくしてある。
・リモコン。普通のリモコンと違い、文字を見ながらボタンを押せる。お年寄りに使いやすい。

 以上、ユニバーサルデザイン(UD)製品の事例を紹介した。しかしUD製品という言葉は言い方として少しおかしい。UDとはできるだけ多くの人が利用可能であるように製品、建物、空間をデザインすることで、あくまでもプロセスの定義である。UDのプロセスはいろんな人に対応した便利な機能を盛り込む、そのためにはどんなユーザーがこの商品を使うかという事を知る必要がある。実際に仮説を立ててデザインをしてみて、その人たちに使ってもらうというプロセスを経ながらデザインする、そのプロセスをUDと呼ぶ。 例: シニアの人たちはどのようにPCをどう使うか。シニアの方はそもそも言葉自体がわからないし、マウスの使い方も分からない。拡張子、ウィンドウなどの言葉を知らない人がいる。そういう相手の人たちを理解することからプロセスは始まる。それはつまり現場に行くということでもある。 相手を知るためには、たとえば、被験者に写真のプリント注文をしてもらう。企画者・設計者は被験者がどこでつまずくか観察する。つまずいた所が、改善の余地あるところである。これはユーザビリティテストという。使いやすさのテストであるが、それを通じて相手を知る。 まとめとして、繰り返すがUDはデザインの商品を定義するのではなくて、デザインのプロセスを定義することである。そのために大事なのは相手を知らなくてはならないということだ。

2 私のキャリアについて

 1966年誕生。金沢美術工芸大学、工業デザイン専攻卒業。
卒業制作としてコンピューターの未来形を考えた。8角形の形をしていて、真ん中で割れる。その中にはキーボードとプリンターがある。これにより、ハウジングの会社の営業は現場(顧客宅)で、お客の希望を聞きながらデザインしそれをプリントアウトできるようにな.る。これをデザインするために、三澤ホームやハウジング会社に行って、どのような営業ツールを使っているのか、どのようなことに困っているのか、相手を知ることから始めた。

 富士フィルムに入社後も、相手を知ることにつとめながらデザインした。たとえば、このビデオカメラは、使っている人の様子を知り、左手の親指部分にダイアルがあれば使いやすいだろうと思いデザインした。また、ビデオは縦型にすると脇が閉まって固定し揺れない。 UDは相手を知ることから始まる。実は普通のデザインも同じである。普通のデザインとUDの違いは、UDはより多くの人を知ろうという事である。普通のデザインの場合、対象は、若者とか、女性とか限定されるが、UDは反対に、対象が広く障がいのある方も含めて考える。

 さて、本の出版に関して少しお話しようと思う。UDを行いながら、いろいろな障がいのある方などにお会いして話を聞く機会があった。そして、相手を知りたいという気持ちが高じて、思いついたことがあった。それは視覚障がい者はカメラを使っているのだろうかという疑問だった。 実際は彼らもカメラを使っている。写真を取って家族に見せ、コミュニケーションツールとしている。誤解のないように言うと、障がいのある方は、私が知らないツールの使い方をすることがある。そのことに興味を覚えた。他に事例を集めて、社内の人にこのような使い方をしている人がいるという事を知らせたいと思った。たとえば、視覚障がい者はフォーカス機能を使うことができない。対象をどこに向けているか分からないから、フォーカスができない。そこで、富士フイルムの「写ルンです」はパンフォーカスというフォーカスするタイムラグがない仕組みが組み込まれており、視覚障がい者でもピントがあった写真が撮影できる。それから実際に製品を使っている現場を見たいと思い、ユーザビリティ評価体制を構築することになった。 使ってくれている人を知りたいという気持ちは、だんだん高じ、対象が障がい者含めて広がって行ったが、プライベートでも障害者の方と一緒に活動をすることが多くなっていた。その中で、UDの研究にプライベートでデンマークに視察に行った時のことを、頼まれてある団体で報告を2回行った。私は障がいのある方と接していると、いろいろなことを気づくが、障がい者も理解できるプレゼンテーションは可能なのだろうかと考えた。そこで耳の聞こえない方にはスライドにテキストをすべて挿入しておけば大丈夫ではないかと思い、トライをしてみた。 そこで分かったことは、耳の聞こえない人は、スライドのみならず、私の口の動き、表情、ボディランゲージをすべて見ているという事だ。また、目の見えない人は、音声からしか情報がないために、今、どこにいるか、全体の概略と位置と知りたがっていた。これは普通のプレゼンでも同じことだと思った。障がいの人から大事なことを気づかされた。こういう発見を自分の中だけにとどめておくことはもったいない。どんどん広めていきたいという思いがつのり、それで出版という事になった。

3 「あなたのプレゼンは伝わっていますか?」

 本の内容、プラスアルファをお話しする。伝えるためには伝える方法を知ることが大切だ。3つのポイントが挙げられる。 1.内容をどう組み立てるか 組み立てに関して4つのポイントが重要となる。

① 聴衆は誰か。
  相手を知る必要がある。私は暗い映画館で手を引っ張られている人を想像する。いきなり連れて行かれると恐い。どこにいて、どこに向っているの?少しずつ納得したい。聴衆はそういう人たちだと思う。

② 一歩ずつ進む。
  具体的には一枚ずつ結論する。小さな結論の集積で大きな結論につなげる。一歩ずつ進んでいくことが大切だ。

③ 部分と全体を行ったり来たり。
  全体の俯瞰ができるように全項目を見せ、その中で今、どこにいるかを知らせるために部分と全体をいったり来たりする。情報は羅列でなく、グルーピングをすることにより理解しやすくなる。グルーピングは3つにされる場合が多い。

④ 目的の明確化。聴衆にスポットをあてて、聴衆の立場から以下をはっきりさせる。 
  聴衆が困っていること
  聴衆に提案すること
  聴衆に期待すること

2.スライド資料をどう作るか

4つのポイントがある。
① 見やすいフォント。いろいろな人にとって見やすいとフォントとは、切れず、くっつかず
に、紛らわしくないもの。等幅のゴシック体が見やすいといわれている。
② 文章の扱い方。意味にあわせて行を変え、スペーシング、句読点を考える。
③ 背景の扱い方。さっぱりした所に、はっきりと。写真の上にテキストを載せる場合などちょっと工夫すると見やすくなる。たとえば、写真を少しトリミングするなど。
④ グラフの表現。直感的に分からせる。色盲、色弱の人への配慮をしよう。たとえば、赤いレーザーポイントより、緑の方が8倍明るいといわれている。

3.自分をどう表現するか

① ノンバーバルコミュニケーション(非言語コミュニケーション)
  見た目も大事であるということ。同じことを言うのでも言い方よって、伝わり方が違う。
  メラビアンの法則ではボディランゲージの重要度は非常に高い。日本人がよくする手を前で合わせるしぐさは外国では「イチジクの葉」としては揶揄される。

② プレゼンすること、本当に気に入ってますか。
  自分が本当にそうだと思えないものは人は良いとは思わない。がつんとあなたの思いをぶつけること、それが大事だ。

4.イソムラ式プレゼンテーション・デモンストレーション

 「5感を意識したデンマークのデザインについて」のテーマのプレゼンテーションをデモする。イソムラ式とは以下に要約できる。

① 障がいを持つ方を起点としているプレゼンのノウハウで
② 当然、より多くの人が一緒に理解できる。
③ 字幕付プレゼンテーションで、
④ 目と耳で「感じられる」プレゼンテーションといえる。

デモンストレーション内容ならびに質疑応答は割愛。

以上

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2007年6月17日 (日)

第9回 ジャーナリスト、ICU・上智大学講師 村上むつ子さん

英語を磨いて世界を拓くⅠ

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英語との出会い
 私は東京の出身なのですけれど、小さい時は、本当に普通の、目立たない、恥ずかしがりやの女の子でした。活発といえば活発でしたが、それは、中高と女子だけの学校だったからです。共学だと男子が委員長で、女子は副委員長でなく、女子がなんでもできたから。スポーツや演劇に熱をいれたのも高校生の後半です。私は私立のミッション学校にいっていたこともあり、英語の授業にはネイティブスピカーの先生がいました。そのうち、英語って受験のためだけじゃない、自分の言いたいことが通じる言語なんだとわかってきました。日本では英語は試験のためだけの勉強になりがちですよね。
 大学は上智大学に進学しました。私はここで、恩師というべき先生にも出会いましたが、授業ではアメリカ人の先生がたにいつも自分の意見を求められました。あなたはどうなの、と問われるわけで、説明しようと必死に英語の言葉を探します。また、学生運動盛んな時に英字新聞部にいたので、学内で起こっていることについて記事を書くには、自分が責任をもって説明する必要があります。アカウンタビリティということですね。そのために表現・コミュニケーションというものに意識が向いてきました。人に伝えて伝わったときの達成感、責任感というものを体感する経験をしたのです。

アメリカのジャーナリズムに飛び込む
 就職活動の時期になりましたが、私には新聞社くらいしか考えが浮かびませんでした。当時は雇用機会均等法などないので、企業の求人に女性の枠はありません。当然、記者職に女性の募集はありませんでした。それまでは中高は女子高で、大学でもあからさまな性差別はなかったので、就職の際にはじめて女性だから募集がないことについて驚いたわけです。
 卒業後、ブラブラしているうちに、アメリカのシカゴ・トリビューン紙の東京支局のエディトリアル・アシスタントの仕事を紹介され、フルタイムの仕事を始めました。そこは私と支局長しかいないので、いろいろなテーマで意見を求められました。自分の意見が記事に反映されるので、日本の社会情勢を常に勉強し、情報に対して網を張っていましたね。
私はこうしてアメリカのジャーナリズムに入ったのですが、最初はつらかったです。とにかく人生で初めて朝から晩まで英語漬けで一日が終わる頃には頭が痛くなる。「イングリッシュ・ヘッドエイク」と呼んでいました。でも毎日、新しい体験を獲得できて、勉強になり、楽しかったです。
 当時は70年代半ばでウーマンリブが入ってきた時代です。1975年から10年間、国連主導で女性の差別をなくそうという運動が公のものとして始まった時期でした。私の20代はまさにその渦中。日本でも平塚らいてうの思想をベースとした独特の女性運動が見直され、日本独特のスタイルの女性の運動が始まっていました。
 20代からアメリカのジャーナリズムに関わっているうちに、日本が外からどう見られているかもわかるようになってきました。アメリカが当時、日本に対して持っていたイメージは「フジヤマ」「ゲイシャ」。日本についての記事ならなんでも、そういう言葉がタイトルにもそれがつけられる、そんな時代でした。
 シカゴ・トリビューンの東京支局では、私もまずはフィーチャーストーリー(軽い読み物記事)を書く仕事を任されるようになりました。私はトイレットペーパーの記事を書きました。単語がプリントされているトイレットペーパーで。掲載してもらうために、写真付きで送ったら大きく取り扱わたのです。支局長が出張中に、喜ばれてしまい、その後も政治や経済の記事を書くチャンスが回ってきました。
 ところが仕事を始めて5年くらいたって、母国語じゃない言葉で記事を書くことに対して、このままでいいのかな、と思い始めました。 そこで20代後半、1年間ニューヨークの大学院でアメリカ流のジャーナリズムの基礎を勉強しなおしました。修士号を取得して帰国しましが、30近くの女性が。留学して勉強してきたことを生かせる仕事はなかなかないのです。今すぐ就職しなくても、と思っている内に、フリーの立場で取材、執筆を頼まれるようになり、継続して記事を書くようになりました。その結果、10年間はフリーランスの記者として仕事を続けました。来た仕事は断らないでいたら、まったく知らない分野、たとえばマシンツール(工作機械=機械をつくる機械)や産業ロボットなどの記事を書いてくれという依頼も来るわけです。そのたびに必死に勉強して書きました。鉄鋼、金属にまつわる記事なども書き、全工業を勉強する結果になり、おかげで怖いものはなにもなくなりました。

アジアウィークを経て大学で教鞭をとることに
 その頃、アジアウィーク誌にも、週に1、2本の記事を書くようになりました。アジアウィークは1976年に発刊されたアジア地域の英語のニュース雑誌ですが、その後、急成長を続けたため、日本に専任の特派員が欲しいということになり、私は正社員として迎え入れられました。ちょうどその頃、私は人生の大きな節目に入っていました。それまでは英語で記事を書くと言えば、アメリカの読者のために記事を書いていました。が、今度はアジアの読者に向けて書くという点で、アジアからものを見るという経験を積み始めていたのです。たとえば、貿易摩擦や東アジアの近代史を日本だけでなくアジア地域の視界でみる、というようなことです。また、80年代のアジア経済の急成長を見つめながら、地域全体の中の日本の位置づけを学ぶことにもなりました。また、90年代、バブルがはじけた日本の「失われた10年」も外からの眼でみながら報道する、ということをしました。アジアウィークはアメリカのタイムの系列に入り、成長を続けていました。
 私が50代の半ばに入ろうというころに、9.11事件が起こりました。その影響で広告市場に動揺があり、結果的にアジアウィークが廃刊となり、私もアメリカ系メディアからはなれて、自分のこれからを考える時間を自分に一年ほど与えました。
 その後、大学で講師として教えるという機会を得ました。もともと、記者の眼で日本の若い人のことが気になっていました。非常に幼い、歴史観などが薄い・・・など。日本で生まれ育つと、社会性や社会的責任感が育まれる機会が乏しいのではないだろうか、それには「アクション・ラ−ニング」「体験学習」の手法でジャーナリズムを教えることがなにかの役には立つのではないか、と思ったのです。上智大学、国際基督教大学、聖心女子大学でジャーナリズムやコミュニケーション、英語のライティングなどを教える中、サービスラーニングという教育手法にも出会い、現在はそれに力を注いでいます。こういう私の半生を振り返り、考えの流れや進展を思うにつけ、英語を手にしたことが大きかった、と思っています。

英語を獲得することで広がる視界
 世界の中で、ネイティブで英語を話すのは約3億6000万人。第2言語としては約10億から15億人と言われています。特にインド・中国では、毎年何千万人と英語をあやつれる人口が増えつつあります。日本人も日本語だけの価値観の中に閉じこもって暮すのでなく、英語を知ることで10億人の価値観を知ることができるというのはすごいことですよね。日本の中では英語をひたすら崇拝する風潮も一部にありますが(英語帝国主義論とも言われますが)、世界中にITが広まるにつれ、英語が主流言語としてインターネット世界の基本言語として広まったことは事実です。その結果の不平等つまりEnglish Divideもあります。英語が出来れば国際的かという疑問も生まれています。が、東南アジア各国や、インドでは、なまりのある英語を堂々と話しています。私自身も今までの体験から、英語を獲得すると、欧米の人々だけでなく、アジアや他の地域の人々ともコミュニケートできるのだと、実感しています。英語が日本語と同じように使えると、豊かで楽しい人生になっていくはずです。

■視界は地球規模に広がる
 英語を獲得すると、情報の量と質は地球規模になります。経済の記事は日経で読むより、英語で読むほうが断然わかりやすいとわかります。たとえばウォールストリートジャーナルの記事で見ると、トヨタ売上1兆円突破という内容については、GMと並び評され、世界中の自動車業界でのポジションという視点で書かれています。国内紙では日本からの視野を越えて地球的視野で、とはいきません。
また、世界のトレンドやファッションもより多く早くわかる。BRIC’sについて、環境とファッションの結びつきとか。日本語ではでてこない切り口・視野の読み物が多いです。医療についても、例えばアメリカでは新薬情報などがディスクローズされていることが多いので、英語がわかれば、インターネットでどんどん最新の情報が入ってくる。その情報がすべて自分に直接に役には立たなくても、医師に伝えることで状況が変わるケースもあるわけです。
 日本がどのように見られているか、も世界標準の視点がわかります。英語情報での安倍首相就任の際の記事、柳沢厚生労働省大臣の「産む機械発言」などを見ると、日本での扱いの切り口と違います。
 今年の1月1日の資生堂の広告は、女性が裸で子供を抱いている。母性賛歌が全面にでている全面広告でした。私はこれを見てゲンナリしました。日本では女性を讃歌する母性強調スタイルが根強いですね。柳沢発言につながると思います。

■人生の見え方が変わる
 私は自分のことはフェミニストだと思っています。若い頃、「The Feminine Mystique」という本と出会いました。郊外の一軒家で家族と暮す幸せな母親となることが幸せ、というイメージが一般的だが、現実ではそういう暮しイコール女性の幸せではないことも多い、という内容です。いまだに日本ではこういうメンタリティが続いているのですが。
 また、日本の立場がよくわかるようになります。特に歴史における日本の立場について、これはアジアウィークで記者生活をしている中で学びました。

■日本の女性のイメージがわかる
 欧米のゲイシャ、毎年ゲイシャと名の付く本や記事が毎年出ています。日本女性のイメージといえば従順であまりものを言わない、あるいは、くすくす、きゃっきゃと笑う女性のイメージが浸透しています。もっと現代的なイメージとしては、金遣いが荒い、おしゃれと思われていますし、海外では場所によっては、日本女性は性的に開放的だとか、誘えば簡単にひっかかるとも。日本女性は愛のない結婚生活をしている、と信じこんでいる人もいます。
 日本では、演歌的な女性像が世の中にばら撒かれていることも特徴です。「私バカよね」「お暇なら来てよね」と言った歌詞に代表されるように、家庭で求める母性としての女性と酒場での女性像が2極にステレオタイプ化している。私は演歌よりビートルズの歌に描かれている女性像の方が好きです。彼らの愛の歌の中には、「僕たち、いっしょに人生をなんとかしていこうよ」という歌詞の歌があります。女性を同じ人間としてみており、母性やセックスの対象としてしか女性を見ないという昔ながらの日本の女性像とは違うと、私は若い時から思いました。また家族像でも、日本ではドラマでも広告でも女性と子供が家にして、お父さんは外というイメージがまだ強いですね。
 たとえば、2003年から2005年の26ヶ月間、日本においてわいせつ行為で免許を剥奪された教師は、なんと255名もいたそうです。免許を取り上げられていなくとも、そういう教員はもっといるでしょう。また、世界中でばら撒かれている児童ポルノは、95%以上が日本発といわれています。女性をイコールパートナーと見る目を育つ機会がないままに大人になっている日本の男性が多いのではないか、と私は思っています。
 英語を獲得することで、メディアリテラシー、クリティカルシンキングを身につけて日本のメディアをうのみにしないこと、日本がどういう位置にあるのか、自分の立ち位置について考えることも、英語を獲得する中で得られたことです。

英語をどうやって勉強するか

とにかくたくさん読む・聞く・話す、これが上達の道だと思います。

①趣味の道から入る
好ききなものから。たとえば映画など。私は栗原はるみさんの英語の料理本、スポーツ、アート(ネットサーフィンで建築物を見る)、音楽(ボノやクリントイーストウッドの活躍が気になる)

②推理小説から入る
先へ先へと読み進めることができるのでいいです。

③日英でニュースをチェック
Yahoo.com、韓国中央日報、CNNをかけっぱなしなど。

④NHKの「英語でしゃべらナイト」はお薦め

⑤英語を話すチャンスを作る
地域ボランティア、国際交流NPO、スタディツアーズに参加する。休暇中に海外の人と自宅交換をするというのも面白い。

⑥音読のススメ
声を出して読むほうが頭に入る。好きな映画のスクリプトを読む。

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2007年4月 7日 (土)

第11回 LOHASプロデューサー 大和田順子さん

今、求められるロハス的な視点
ライフミッションを仕事に選んで
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基礎的な価値観を作った中高時代

今回、この講演にあたり、自分のキャリアを振り返ってみたところ、大学を卒業し就職して以来、20数年間会社員をしてきたが、会社は何回か変わった。中高はプロテスタントの私立一貫校の女子校で、「男、女に関わらず、一人の人間として自立せよ」、ということを教える社会派の学校で、ユニークな先生が多く、ボランティアをしたり、外部の人たちが講義にいらしたり、面白い6年間を送った。この頃の経験が多分、私の基礎的な価値観を作ったと思う。女子校なので、自分たちでなんでもやるような校風で、高校では議会の議長を務めたり、クラブでは教育研究会や地質クラブに入ったり、けっこう硬派だった。ところが、受験勉強はしなかったので。推薦で大学に入った。大学は学習院の哲学科で、浩宮様と一緒にオーケストラでビオラを弾いていたりしていた。中高のリベラルな校風と違い、この大学は保守的で、そういう意味では違和感のある4年間だったけれど、音楽を聴き、絵を見てすごした楽しい期間でもあった。

常にチャンスを掴もうとチャレンジした20代
いざ就職といっても、均等法以前で、女性にはあまり職がなかった。東急百貨店の人事部にいた大学の先輩が、大卒一期生を採用するので説明会に来ないかと言ってくれ、遊びに行ってそのまま東急に決めた。当時は、大企業に入って出世したかったし、百貨店なので女性も活躍できるだろうということと、定年まで勤められるという2点が決め手となった。

東急では懸賞論文や企画募集制度があり、そういうものには毎回チャレンジした。とくに行きたかったのは欧米流通業視察で、3回エントリーして、3回目でようやく選ばれアメリカに行った。今思えば、目立ちたいというよりも、当時は企画・広報・宣伝に憧れていたのだと思う。東急文化村ができると聞いたときには、頼まれもしないのに提案書を書いて、文化村の責任者に会いに行き、ぜひ文化村の仕事がしたいと、勝手に社内で自己申告して歩いていた。残念ながら文化村には採用されなかったが。

入社して最初は本社の企画部に配属された。3年半たって、急に、東横紳士セーター売り場に異動になった。今は違うと思うが、当時は、男性は売り場の品揃えや企画、女性は販売というように男女の役割分担があった。紳士セーター売り場でに行って、毎日のようにレジを打ったり、バーゲンの商品を並べたり、段ボール箱を運んだりしていた。そんなことをしていると、こんなことでいいのかなあと思い始め、そうするとまた人事に行って、私は留学したいという話をした。そうしたら、東急総合研究所ができるので、そこの研究員はどうだろうということを言われ、そこに出向することになった。

結婚・出産、でも昇給・昇格に遅れを取りたくない
東急総研ではグループ企業からメンバーが出向してきた。私の研究テーマは、高齢化と情報化。そして沿線地域住民の意識調査、新規事業の事前調査などを行った。一方で自主研究テーマを決めてリサーチしていた。そのころ、プライベートでは結婚し出産をした。男女差がないといわれて入った百貨店では実は2年目から、男女で差がついていた。そのことで人事に文句を言ったりしていたが、ここで産休を取るとまた、昇給が遅れると思った。それを防ぐには何をするべきか考え、資格をとることにした。産休中というのは、実はけっこう時間があるので受験勉強して消費生活アドバイザーの資格を取った。

自主プロジェクトでは、「百貨店人のためのエコロジーハンドブック」というものを作った。これは、環境教育のツールの様なもので、百貨店で扱っている商品が環境問題とどのようなかかわりがあるのか説明した冊子である。消費生活アドバイザーの資格をもっている百貨店の女性有志数名に声をかけ、プロジェクトチームを作り、自主的にハンドブックを作った。、出来上がってみると、会社でも環境委員会が出来た頃だったので、早速印刷して全社員に配ってくれた。業界初ということや、女性たちが自主的に作ったということで、けっこうメディアにも取り上げられた。

また、当時は企業市民とかフィランソロピー、メセナなどがキーワードの時代であったので、そのテーマも研究していた。いろんな企業を調べているうちに英国のザ・ボディショップという会社を知った。収益をあげることと社会を変革することを両輪としている、こんなすごい会社があるならそんな所で働いてみたいものだと思っていた。そんな時に木全ミツさんという労働省出身で元国連公使をされた方が初代社長になることになったが、ある講演会で木全さんとお目にかかることができた。それがきっかけで、一年半後、環境担当を探しているというお話があって、ボディショップに転職することにした。

自己ブランド化の始まり
ひるがえって思うと、この頃から、自分のブランド化を無意識に実践し始めていたように思う。研究所は自由であったので、人脈を広げたり、NGOの研究会に参加したり、プライベートで欧米の環境保護団体に視察に行ったりすることができた。相変わらず懸賞論文好きが続いていたが、なんとか日本一にを取りたいと思っていた。消費生活アドバイザー関係の人が多くエントリーするある懸賞論文に応募し、ついに経済企画庁長官賞を受賞することができた。それを知り合いの新聞記者に記事にしてもらった。このように自らPR材料を作り、記事のクリッピングなど、自分をPRするツールをいつも持ち歩いていた。たとえば、木全さんにお会いしたときにもそういうものをお渡しした。印象的だったと後日聞いた。

自己実現の30代
30歳代はほとんどがボディショップ時代で、そこで7年間を過ごした。この時代は自己実現の時代だったと思う。ボディショップは社会問題や環境問題などに取り組む世界最先端のCSR企業だったので、世界中の動向が入ってきた。動物保護、人権、環境、CSRなどの取り組みを行った。たとえば人権のキャンペーンをするときは、NGOのアムネスティ・インターナショナルと協働した。今では当たり前の手法であるが、当時は企業とNGOのコラボレーションはめずらしかった。。

会社は小さかったので、自分のしたい仕事は全部自分の部署にもってくることができた。コミュニケーション部を設立し、広報、カストマー・サービス、販売促進など、そのようにして経験した。また海外出張も初めて経験し、毎年数回海外での会議に参加した。実は英語は苦手でサバイバル・イングリッシュでしかなかったが。

7年いると、大体仕事も一巡してくるが、丁度、木全さんが定年になったので、どうしようかなと思っていた時に、イースクエアという環境コンサルティングの会社が立ち上がるというので、それに参加することにした。イーコマースも行うベンチャー企業の創業メンバーということで張り切った。

ベンチャーに飛び込んだ40代前半
イースクエアの社長はデンマーク人のピーター・ピーターゼンさんという人で、彼を始め、すばらしいメンバー、すばらしい企業、すばらしいコンセプトに出会ったのはこの2年間だった。デンマークと日本では、こんなに考え方が違うのかと驚いた。

ただし、ベンチャーに憧れて転職したものの、現実は自分の給料は自分で稼ぎ出さなくてはならないというのが現実で、2、3ヶ月先の給料は、今営業して仕事にしないと入ってこないとい。大変ではあったが、当たり前の厳しい現実を体験しすることができた。

この時代に出会った人は、イースクエアの会長でもある木内孝さん、今はなくなってしまったが、エコ商品だけを集めた伝説のeコマース、「エコシティ21.com」の参加企業の生活の木、池内タオル、メイドインアース、マヴィ、ピープルツリー、アミタなど100社を超える中小企業の経営者の方々、そして若いスタッフの人たちだった。

また、LOHAS(ロハス)とカーボン・ニュートラルというコンセプトに出会ったのもこの時期だ。イースクエアの社外取締役にアメリカ人がいて、アメリカではカルチュアル・クリエーティブという新しい価値観を持つ人たちが増えていて、その人たちの会議があるというので、これは絶対出席しなくてはとコロラドに行った。それが2002年の6回目のロハスの会議である。また、カーボン・ニュートラルというのは、個人や企業が排出したCO2をオフセットするために植林をする活動で、イギリスのフューチャーフォレスト(現在はザ・カーボン・ニュートラル・カンパニー)が始めた事業。このフューチャーフォレストのカーボン・ニュートラル・プログラムを日本で最初に導入した会社がホメオスタイルだった。

40代中盤で、売り上げ&集客に執念
ホメオスタイルは、ソフトバンク・インベストメントの北尾孝吉さんが会長で出資をしている会社で、株式公開を目指しているという。美容の会社で、全国で会員制のサロンを展開し、総合美顔機、化粧品、婦人服などを扱っている。イースクエアとして、この会社のカーボンニュートラル導入の広報業務を受託したが、マーケティングの責任者が必要というので、株式公開も経験してみたいと思い転職した。

ここでは、ボディショップや、イースクエアとは180度違う価値感を目の当たりにした。と言ってもビジネスの世界の普通の価値感ではあるだろう。そして、遅ればせながら40代にして初めて売り上げを上げることに執念をもって取り組んだ。マーケティング業務の責任者なので、店舗や新業態開発、DRM、 通販、ネットなどを駆使して、ひたすら集客と売り上げ促進に注力した4年間だった。

私にとっての宝は何かと自問
ところで私は八丈島に縁があり、10年間ほど、毎年通っていたが、毎夏の1週間は私にとっては大切な時だった。通っているうちに、ここの環境の変化を肌で感じていた。八丈島には家があり、2005年の夏、ここで過ごしていた時に、たまたま本棚に「アルケミスト」という弟の本が置いてあった。子供向けの本だろうと思ったものの、どうしても気になるので、読んでみた。それは羊飼いの少年が自分の宝物探しの旅に出て、結局は自分の裏庭でそれを発見するという話である。これを読んで、私にとっての宝物は何だろうと考えた。それは足元にあるに違いない。そう、それはロハスだ、私にとって使命にすべきことは、環境問題や社会問題に取り組むことなのだと思いいたった。

そこで、早速、自分のホームページを作って、今まで書いたものを載せ、メルマガを発行した。誰か見つけてくれるかも知れないと思いつつ。そうしたら講談社からロハスの本を作りませんかと相談があり、「日本をロハスに変える30の方法」を書くことになった。一人で書くと大変なので、知人と3人で書き、去年の1月に出版した。おかげさまで1万人を超える方々に読んでいただいた。世の中に10万部とかベストセラーは沢山あるが、無名の著者で1万部を超えるのは上出来なんだそうだ。

40代後半、ライフミッションを形にする
そして昨年の4月からついにフリーになった。イースクエア時代もベンチャーとは言え、給料は出ていたわけだから、フリーになったら、それは自分で稼ぎ出さなくてはならないということを初めて体験した。それまでは転職先を決めてから、会社を辞めていたが、今回は決めずに辞めた。そしてロハスに集中した。まずは4月にアメリカで開かれているロハス会議(第10回)に行った。幸い昨年は講演会や執筆の依頼が多かった。また、ロハスというコンセプトのライフサイクル(市場導入から成長期、成熟期など)のプロセスを考えたり、、自分自身を業界の中でどうポジショニングするか、そしてロハスをどのように普及させるか、いろいろと考えながらの一年だった。

フリーを一年体験しての感想。まずは初年度は何とかサバイバルした。でも講演のようなものは、依頼が来るまで分からない。定期的な収入を得るには、企業のコンサルティングだと思い、コンサルタントの友人のアドバイスを受け、複数の企業のアドバイス業務を行うようになった。事業はやるべきことが見えたらおいおい考えようと思っている。

この一年間は再会の日々でもあった。東急総合研、ボディショップ、イースクエア時代に接点のあった方々や企業が、それぞれ新しいステージにいて、また、一緒に活動することができた。また、ロハスをテーマにするなら、利己的であったり自分の事ばかり考えていたらいけないよと知人からアドバイスされた。それまでは自己実現をキーワードにしてきたが、そうだ、自分でなく、利他、社会のため、つまりは社会実現をこれからは念頭に置かなければと思った。要するに持続可能な社会を実現するために貢献することを仕事にしようと決めたのだ。

そして最初にロハスのビジネス系の本を書いたので、次にはロハスの社会化を考えた。ややもすると商業主義に偏るきらいのあるコンセプトなので、社会化するにはどうしようかと考え、小中学校の先生向けに本を作ることにした。それで4人で「ロハスの教科書」を出版することにした。一方、ロハスでビジネス・起業したいという方々から相談を受けるので、そういう人のために、ロハスビジネスの始め方についても本を書く予定だ。また、中小企業でロハスをビジネスに取り入れたいという人が多いので「ロハス・ビジネス・アライアンス」という組織を立ち上げようと思っている。

ロハスについて(スライドによる説明)
最近の問題意識は気候変動に関するもので、それは私たちに待ったなしの行動を要求している。ロハスを推進してきて思うことだが、日本は消費が偏重されている社会だ。ロハスはヘルス・アンド・サステナビリティのライフスタイルで、意訳をすると身体と心と社会と地球の健康が重なっている部分がロハスだと思っている。

ロハスのコンセプトができて10年になる。ロハスを作った人たちはコロラド州、ボールダーに住んでいた元ヒッピーの人たちで、オーガニックな農産物の振興やナチュラルビジネスに関わっており、それを大きくすることを望んでいた。それをしないと地球はダメになると考えていたのである。彼らと金融業界のお見合いのようなものが最初の会議で当時はロハス会議とは呼ばれていなかった。一方、社会学者のポール・レイが、カルチュアル・クリエーティブと名づけた新しい価値観を持った人たちが約5000万人いると発表した。ロハスの市場規模は大きい。消費者調査なども行われ、すべてのデータが出揃った2002年の会議が、私が初めて参加した回だった。その会議の様子をレポートし、友人の記者に頼んで日経に掲載されたのが、日本でロハスを紹介した最初の記事となった。

去年には10回目のロハス会議があったが、620人の参加者の内、50人が日本人だった。去年一年のロハスの活動を見ると、ロハスワールドスプリングという消費者イベントが日本であった。また、ピーターが「ロハスに暮らす」を出版し、イースクエアがロハスマーケティング・イニシアティブという大企業中心の研究会を立ち上げ、「ソトコト」がロハスデザイン大賞を設け、中央公論から「リクウ」という雑誌が出たりした。

今年はロハスのS(サステナビリティ)の取り組みが加速されると思われる。1月には「不都合な真実」が評判を呼び、3月には「オルタナ」という登録すると無料のビジネス情報誌が出る。ロハスを使わずにロハスを表現したいということで「オルタナ」という名になった。「ナチュラルスタイル」という雑誌も創刊され、私の関わっている「ロハスの教科書」の発行や、中小企業向けの団体の立ち上げもある予定だ。その他、カーボン・ニュートラルのビジネスが加速すると思われる。

ロハスの5つのカテゴリー
ロハスには5つのマーケットがある。
1つ目の分野は、ヘルシーライフスタイルで、その中身はオーガニック、マクロビオティック、天然素材を使ったヘルスケアなど。ロハスに欠かせないのは、世界的な視野である。自分の生活を基点にしながら、地球規模な視野を持つのが大切。日本は食糧自給率が非常に低い。このことについてもっと関心を寄せるべきだと思う。
2つ目の分野は、住宅、家庭用品、余暇のカテゴリーになる。日本の木材自給率は昭和35年の90%から今は20%に落ちている。
3つ目の分野はオルタナティブヘルスケア。西洋医療と民間療法を統合した統合医療が重要になるのではないかという視点である。
4つ目は自己開発の分野で、ヨガなどがこの分野に入る。潜在意識を活性化して、クリエーティブな能力を高めることを目指している。
5つ目は持続可能な経済である。石油もピークを迎えているので、これからどうするかが問われている。建築も環境を配慮すべき。車は所有から共有の時代へ、など。

ロハスの視点は、自分の生活から世界的な視野を持とう、そして日々の暮らしからできることから始めようというものだ。働き方やビジネスのありかたを見直し、思いやりや精神性を重要視して、社会全体を持続可能なものにしようというものだ。

※ロハス度チェックの実施
(参加者対象にロハス度をチェックするアンケート実施)

※ロハス企業例の紹介
(省略)

「好き」と「強み」にフォーカスしてきた20数年間
私のキャリアを振り返ってみると、自分の好きなこと、得意なことにフォーカスしてきたと思う。ホームランは打つことはなかったが、内野安打を重ねてきた。このごろ、よく出会いの意味を考える。今日この講演会で皆さまにお会いしたのもきっと意味があるのに違いない。最近座右の銘は何かと聞かれることがあるので、「世の中を変えるのは私たち、一人ひとり」と言っている。一人ひとりが変れば、世の中が変るわけだから。

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2007年3月31日 (土)

第10回 ジャーナリスト・NPO主宰 ルーシー・クラフト

英語を磨いて世界を拓くII 

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ウォーターゲート事件に触発され、ジャーナリズムを目指す
高校時代から活字が大好きだった。アメリカで70年代を象徴する一大事件はウォーターゲート事件だった。この事件は当時のニクソン大統領の不正をジャーナリストが発見・追及した事件で、ニクソン大統領を辞任にまで追い込んだ。この事件のおかげで若い人の中でジャーナリストに対する興味が強く出てきた。私もその一人。一方、中東では少しずつイスラエルとその周辺国で摩擦が出てきていた。

私が育ったのはワシントンDCでここはニュースのメッカなので、ここを目指すジャーナリストはとても多い。という事はライバルも多い訳で、狭き門での競争を避け、国際的な場でのジャーナリストを目指そうと思い、大学では中東のことを勉強した。ユダヤ人としてイスラエルのこと深い関心もあった。

母の一言で、イスラエルに行くはずが、日本で過ごすことに
本当はイスラエルに行こうと思い、準備をしていたが、母は中東の紛争を心配していた。母は日本人なのだけど、「おばあちゃんの所に遊びに行けば」という母の一言で、中東に行く途中に日本で少し過ごそうと思い来日した。英語だけで日本で生活するのは不可能だと思ったので、来る前に9ヶ月集中して日本語を学んでから日本に来た。ほんの少しのつもりが、いつの間にか夫と出あって、1982年の来日以来、20年以上、日本に住んでいる。

最初は仕事がなく、友人が防衛関係の仕事をしていたので、その関係でDefense Weekという所で、働くことになった。ある時シンガポールでの武器の展示会を取材に行き、「ライフルを撃ってみたら」と言われ、ライフルを手にしたが、これは人を殺すものだという事を実感し、防衛関係の仕事は向いていないと思いこの仕事から離れた。

活字からテレビの世界へ
私は活字からジャーナリズムに入っていったので、ラジオやテレビのことは何も知らなかったし、自分でできるとは思わなかった。ある時、プレスクラブでテレビの仕事にオーディションで人を募集している広告を見つけ、受けに行った。ピンからキリまでいろいろな人が来ていたが、ほとんどは素人で、プロとしてオーディションに合格したのは私を含めて3人だった。84年くらいから、フリーとしてちゃんとしたメディアで雇われるようになったが、88年くらいに、自分の能力の限界を感じ、勉強しなおしたいと思い、アメリカのコロンビア大学の国際関係学部に入った。日本人も多かった。日本人の大部分が日本のことを勉強しているのを見て、不思議だった。なぜ、日本のことをアメリカで勉強するのかと聞いたら、日本ではこういう事を学ぶ場がないという事だった。

89年頃から始まる日本パッシング
バブルが弾ける前までは、日本の成功に学びたいということで、日本に関する記事はいつもトップニュースでその需要は高かった。でもそれは89年くらいまでで、バブルがはじけ、多くの米国メディアは日本から撤退して行った。日本を素通りして、焦点は中国に移っていき、日本パッシングが始まった。アメリカから日本をカバーしているメディアは本当に少なくなってしまった。私がカバーできる分野は2つ。一つはロボットや携帯などの先端技術の分野。もう一つはちょっと変った話。たとえば、オタクの話とか大食いの競争の話とか。このように限られている分野のほかは、アメリカのメディアは日本に関心がなくなってしまった。その背景にはアメリカのメディアが大混乱していることが挙げられる。インターネットの普及によって、メディアをめぐる環境は様変わりしてしまったのだ。さらに海外のニュースの枠組みが主に中東のニュースで占められることになってしまった。海外枠の内、8割、9割が中東で、その他は主に中国関連の記事。日本にはほんのわずかな予算しか当てられていないのが現状だ。

環境問題のNGOを立ち上げる
90年に日本に帰り、公共放送などテレビの仕事をするようになった。出産もした。それでそれまでは、自分の事や家族のことに集中して生きてきたけど、半分くらいは人のことに時間を使おうと思い始めていた。たまたま自然関係の雑誌の取材でペレストロイカ以後のロシアに目を向けようという事で、北方四島の取材で国後島に行った。科学者の中にはロシアには他では消滅した自然が残っているのではないかと考える人がいて、それを調べるのが仕事だった。98年9月だったが、東京から、函館、サハリン経由で国後に行ったのだが、サハリンでは本当にひどい目に合った。それというのもペレストロイカ後のロシアはもう経済がめちゃめちゃで、函館からのロシアの飛行機はぼろぼろ。ホテルもぼろぼろ。東京は暑かったので、軽装でいったのだが、ひどく寒くて着るものを買おうにも売っていない。電気もつかず、お風呂もない。レストランも閉鎖でスープもコーヒーもない。次の朝、なんとか無事に国後にたどり着き、無事に2週間くらい過ごした。国後の自然はすばらしくこのすばらしい所を誰も知らないのは残念だと思い、帰って北方四島の環境保護のNPOを作った。

私のロールモデル、母のこと
母は浅草生まれの江戸っ子で、1952年に日本を離れた。アメリカ人である父とは、日本でランゲージ交換(片方が日本語を教え、片方が英語を教えるシステム)を通じて出会い、デートを始めたとのこと。母は津田塾出で、仕事を持ちたかったけど、日本では見つからず、アメリカに行こうと考え、アメリカに帰国していた父に相談したら、力になるよ、という事でアメリカに渡った。母はいろいろな大学で勉強し、最終的にはペンシルバニア大学を卒業して働き始めた。戦争のことは、あまり話したがらなかったけれど、若いときは苦労したらしい。もともと医者になりたかったらしく、アメリカで生物学を専攻し、その専門分野で翻訳・通訳をするようになった。アメリカの厚生省のような所で世界中から物すごい量のデータを集めたところで仕事をしていた。母は今、77歳だが、自分の会社を10年前に作って、翻訳や通訳のほか、若い人のトレーニングをしたりして忙しく働いている。母は私のロールモデルで、私もあのようにずっと働いていきたいと思っている。

母はユダヤ人のファミリーの中で苦労した。日本人の女性がアメリカ人(ユダヤ人)と結婚してその生活を書いた本があるが(注:「過越しの祭り」 作者 米谷ふみ子)、母はそれを読んで、自分の生活とよく似ていると言っていた。つまりユダヤ人の社会はみなプライドが高く、男の人が威張っている社会なので、日本からの嫁は大変だったようだ。でも父は10年くらい前に退職してから、母のことをすごく頼るようになった。今は、役割が逆になって、父が母を頼っているような状況になり、それは母の誇りとなっている。

ビデオ上映(ルーシーの取材ビデオを紹介。)

日本からのトピック
今はCBSと契約している。あちらから取材の指示があることもあるが、主に私からストーリーを提示することが多い。CBSがOKすると、取材するという形を取っている。どのようなトピックかというと、たとえば、日本人の着物離れの話。また、日本人にとっては当たり前のことかもしれないが、高齢グッズ(おばあちゃんのおもちゃや高齢者用のテニスラケット)のこととか、渋谷のギャル現象とか、名古屋でエリッククラプトンなど有名な人のギターを作っているに手作りのギター工場の話とか。この間は札幌の人の会社を取材した。それは、息子・娘の相手を見つけるために、父親や母親が「デート」をする場を提供する会社だった。子どもの相手を見つけるために、150人くらいがホテルに集まっていた。アメリカにはスピード・デーティングというのがあって、男性と女性が長いテーブルの両側に座り、流れ作業的に5分くらいずつ喋りながら、相手を探していくという方法があるが、親が出てきて子どものために相手の親とデートをするのはアメリカでは想像できない。ある母親が言うのは日本の社会のコンビニ化・便利化が結婚しない人たちを生んでいるということだ。母親達は元気な人だったら嫁は誰でも良いというような絶望的な話が多い。

働く人へのメッセージ
まず、英語についてお話したい。英語や外国語を覚えるのは大変だと思うけれど、残念ながら、世界で一番使われている言葉は「ブロークンイングリッシュ」です。だとしたら、ブロークンでいいので、遠慮なく、使って欲しい。どんなに楽しい世界が開けるか、きっと想像できないくらいだと思う。この間、インドに行ったが、インドの人は独特の発音をするけれど、レストランや街中で楽しい会話がたくさんできた。間違えても誰も軽蔑はしないし、恥ずかしいこともない。英語国民から見ると、一生懸命話をしてくれる人がいたらそれはとても嬉しいことである。

子どもの気持ちを忘れないで
典型的なアメリカ人のように聞こえるが、私は50歳になってもまだまだ大人になりたくない、子どもの意識でいたいと思っている。いつまでたっても若々しい子どものようなマインドを持っていてもいいのではないかと思う。日本人は自分の事を美しく磨くのはすごいと思うけれど、外側だけでなく中身、つまり、自分の持っている能力も磨いて欲しい。ここでよいと満足しないで欲しい。私もジャーナリズムの次には何をしようかといつも考えている。

育児とキャリア
外国人の目から見れば、日本は育児に関して天国である。保育園のシステムがきちんとしている。娘と息子の場合は8年くらい、保育園のお世話になった。比較的安い費用で、信頼できる保母さんにきちんと見てもらえる。こういうシステムは他の国にない。他の国と比べたらすごく良くできている。それから夫も助けてくれたし、私は自宅で仕事をできることもあったので、なんとか育児をしながら仕事ができた。アメリカでも保育園はあるが非常に高い。でもベビーシッターの制度があるので、それが助けになっている。ベビーシッターは学生のアルバイトとして良い制度だと思う。もちろん問題シッターもいることはいるが、学生も責任感を持つことができるようになるという面もある。

女性と仕事
日本では子どもがいるのに働いて大丈夫?というようなプレッシャーもあったけれど、私たちから見れば、母親が働くのは当たり前。柳澤厚生労働大臣のような発言は考えられない。日本人だけではなくて、男性は母親の像を求めている人が多い。けれども世の中は逆戻りできない。だから昔の母親像を妻に求められてもそれはナンセンス。男の人は目を覚まして欲しい。

リーダーシップとフォロワーシップについて
日経ベンチャーに毎週コラムを書いている。今、リーダーシップよりもフォロワーシップの方が面白いと思う。フォロワーシップは新しい言葉で知らない人も多いが、今アメリカではちょっとしたブームになっている。周りの人をどのように応援できるかがフォロワーシップで、今、グーグルとかゴア社とか、先端を行く会社がフォロワーシップの研究をしている。権力を与えると偉そうになって、リスクが増す。それは企業にとってはリスクに他ならない。ゴア社は、肩書きは与えずに、プロジェクトごとにリーダーを決めている。能力のある人をキープするためには、能力ある人にとって、居やすい場所を作る必要がある。これは大きな問題で、イノベーティブな会社は芯(コア)を作らない所もある。たとえばある会社がどうしても欲しい人材がいたら、その人材が望む組織を作りましょうという会社もある。逆にダメな会社は、偉そうな肩書きが横行し、政治的なことが先行する会社である。
ところで、私は勝手に社員のタイプを4つに分けた。

・やりがい君・・・ポジティブな思考をする人で責任感も強い。
・トド君・・・頭が悪いわけではないが、受身の人。言われなければ何もしない
・Yes君・・・表面的には「はいはい」といいながら結果を出せない
・No君・・・ネガティブな人で周りの環境に毒を与える人。残念なのは頭が本来は頭が良いのにも関わらず、モチベーションを失ってしまっている。

どの企業も「やりがい君」を求めている。フォロワーシップのチャレンジはどのようにトド君やYes君をやりがい君に変えていくかという事。

フォロワーシップに関するコラムは以下に。
http://nvc.nikkeibp.co.jp/free/COLUMN/20061121/107533/

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2007年2月18日 (日)

第8回 ㈱ハウ 代表取締役 大隈和子さん

幸運は姿を変えてやって来る
ピンチをチャンスに変えるには

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愛国心が芽生えた外国での子ども時代
親の仕事の関係で小学校は日本でしたが、その後ずっと海外で暮らしました。最初に行ったのは南米のウルグアイです。首都、モンテビデオ、南米のスイスと呼ばれているところです。そこで6年生活しました。いきなりスペイン語圏に投げ込まれて、言葉も分からず、一年落として、聴講生として始めました。1953年で、まだ日本人はほとんどいず、動物園のパンダのごとく、珍しがられました。道を歩いていても「チーナ(中国人)」とよばれ、「ノー、ハポネス」と言い返したのが、始めて使った外国語です。学校でも算数は分かるけど、他は全然分からない。悔しくなって、大和魂が芽生え、高校の三年間はめちゃくちゃ勉強しました。多分、一生の中で一番勉強したのはこの時です。この学校では、生徒と先生の人気投票があるのですが、私は必ず私は選ばれていました。それでふっと、もう勉強は言いやと言う気持ちになってしまったのですが。
それから、両親はアフリカのガーナに行きました。それで子供達はスイスに行きました。この時代は本当に楽しい時代でした。スイスでは、インテリアやウィンドウディスプレイを勉強しましたが、夏は水上スキー、冬はスキーに熱中しました。無責任に楽しんだ2年間でした。その後、両親はニューヨークに移り、私もそこでインテリアの学校に入りました。

22歳で結婚。主婦業だけで満足できない自分を発見
ここまで、本当に楽しい人生でしたが、ここから下り坂が始まりました。ある日本の商社マンに会ってしまったのです。それまではボーイフレンドはいつも外国人でしたので、日本人が新鮮に見えたのです。1960年代でしたので、日本人も女性も珍しかったらしく、いい気になって遊んでいたら、一回目の夫になる男性と出会ってしまったのです。彼は先に帰国したのですが、ラブコール攻勢があって、22歳の時、日本に帰って結婚してしまいました。キャリア志向があったので、仕事をしたいと思ったのですが「嫁に仕事をさせるなんてみっともない、恥ずかしい」という事で、スペイン語の翻訳くらいしかさせてもらえません。その内、東京オリンピックがあり、そのコンパニオンになったりしました。今の若い人は東京オリンピックなど知らないでしょうね。その後、夫が南米に赴任することになり、私は若い支店長夫人ということで付いて行きました。ところが、ゴルフ、ブリッジくらいしかすることがなく、暇をもてあましボケちゃうのです。その内、夫と価値感が違うことに気が付き、子どもを連れて日本に帰ってしまいました。この辺は話が長くならないようにはしょります。

さて、帰国して、いざこれからという時に、また、次の男に捕まってしまったのです。私は急に主人の連れ子と合わせて5人の子持ちになってしまいました。一生懸命努力したのですが、連れ子に辛く当たられて大変な思いをしました。夫は感謝してくれるどころか、「お前が悪いんだ」と言い、ドメスティックバイオレンスもあり、夜逃げのごとく、車検切れのバンで夫の所から逃げ出し、その後、離婚してもらうために、家庭裁判所で訴訟が延々と続きました。

離婚。シングルマザーとして生きていくことに。そして始めての就職活動
訴訟の最中から、職探しを始めました。経済的に自立しないとやっていけないので。でも私は日本の学校も出ていないし、大した学校も出ていません。パーフェクトにできる言葉は何もないし、セクレタリーになるには日本語が問題でした。私は33歳になっていたのですが、新聞ではどの広告も25歳までと書いてあります。そこで英字新聞で職を探し、見つけたのがフランスの化粧品会社、C社の美容部長の職でした。年齢は35~45歳までという事でした。美容部長という仕事は何をするのか分かりませんでしたが、自分も化粧品を使うからどうにかなるだろうという事で。「人を使うこと」も要件でした。もちろん、経験はないのですが、「外国で言葉があまり自由でない親の代わりに人を仕切っていた」と言って、切り抜けました。面接で「いくら欲しい?」と聞かれて、相場も知らないままに、「親子3人暮らすには、15万くらい必要です」と答えたのですが、後で、分かったことは、「15万円なら安いし、どうせ、長続きしないだろう、まあ、やらせてみよう」と採用されたようです。同じような地位の人は35万の給料で、私が仕切る人達も15万位の給料でしたので、私の給料はとても安かったのです。その後、給料を上げてもらうのに苦労しました。
美容部長は本社でトレーニングを受けて、同じ教育を日本で行うのが主な仕事です。また、イメージを維持するのも大切な仕事でした。私もそうですが、女性は大体が真面目です。本社の指示を真面目に取って、その通り日本でも行おうとしたのですが、以前からいる男性社員には「フランス式のようなきれいごとでは売れない、イメージなんて二の次だ」というような考えで、私のやり方は邪魔臭かったようです。「あなたが来たから、仕事が面倒くさくなったんだよ」と文句を言われました。自分が真面目であればあるほど、他の人には面倒臭いことになるという図式で、この辺から私へのバッシングが始まりました。

ところ変っても続くバッシング
その内、アメリカの化粧品の会社、E社からオファーがありました。横滑りはつまらないし、多少給料が上がっても割に合わないと思っていましたが、新しく立ち上げるE社のCブランド商品でマーケティングの仕事のオファーがあり、マーケティングなら面白そうだと思い受けました。マーケティング・アンド・エデュケーションディレクターというのがタイトルでした。この時は交渉の仕方も、身に付いていたので、要求をきちんとすることができました。そして、新しいブランドの立ち上げでしたのでとても楽しい仕事でした。

その内、アメリカ本社の上司が、私のことを褒めてくれるようになったのですが、本来なら、日本の上司にとっては嬉しいはずなのに、アメリカでの評価が、上司の嫉妬の原因となってしまったのです。「自分の立場を脅かす生意気なやつ」と取られたのです。「NYに出張しなければならない」と言うと、嫌な顔して、「日帰りで行って来い」、「何とか2,3日、行かせてください」、「ならぬ、帰って来い」というような調子で、アメリカサイドの人も驚いましたが、ほんの1泊で帰ってきました。そうこうしているうちに、マーケティング部長に男性を採用し、私はラインから外されました。外から入ってきたその男の人は、ゴマスリだけは上手でしたが、何もできず、私には本部長付きという変なタイトルを与えて、その無能な男を補佐することになりました。給料は変わりませんでしたが、これは明らかに降格人事です。全体会議も入れてくれないので情報過疎地帯に置かれました。そして広報に転部することになったのです。後で振り返って見るとこれは実にラッキーなことでした。というのも広報の職では、社外のエディター、ライターなど、違う世界の人たちに会うことができたからです。明らかに社内の人たちよりレベルが高い人たちで、そういう人たちと仕事をするのはとても楽しかった。その頃、一緒に仕事をし、遊んだ人たちが、後々、偉くなって、いろいろな面で私を助けてくれました。振り返れば、あのバッシングは私にとって、本当にラッキーなことでした。

機運にのって、「チャンスだ、やれ!」とキャリア新展開
そして女性の視点で勝ち取ったクライアント

5年も同じことをしていると、ルーティンになって来ます。違うことしたいなあ、と思った時にはもう、アンテナを立てていたのですよね。いろいろと話はありましたが、横滑りはあまり面白くなかったので乗りませんでした。その頃は、バブルの時代で、女性を立てて、マーケティング会社を作ろうという機運がありました。広告代理店のD企画も同じことを考えて、女性のPR会社を作ろうということで、女性を募集したら、優秀な人が大勢集まりました。そこで、束ねる人がいるというので、私にお声がかかったのです。女ばかり15人、資本金8000万で、D企画の子会社ができました。ハウです。実はその時、受けるか受けないかいろいろ悩んで、友達に相談しました。男友達は、全員、「やめろ。なぜ、苦労の中に飛び込むの? 日本の会社は大変だ。」と皆反対。女友達は全員、「チャンス、やれ!」と背中を押してくれました。多少利口になっていたから、「クライアント獲得の営業はD企画でやってください」という取り決めをしましたが、きちんとしたシステムを作っていなかったので、上手く行きませんでした。D企画としてみれば、社内にマーケティングセクションがあるのに、何もお金を払って、子会社のハウに頼むことはなかったのです。

その内、モナコ政府が観光局を代行してくれる代理店を探していて、コンペの話がD企画を通じて来ました。実は私はコンペというと血が沸くのです。いろいろ考えて企画書を作りモナコを勝ち取りました。モナコといえば、地中海の小国で安全、ならば、これからOL
の人たちが自分へのご褒美として行くのにふさわしいデスティネーションではないか、という視点がモナコの期待に合っていた様です。ちなみに他社のプレゼン内容は男性を対象にカジノツアーとか、F1レース、あるいは女性ならグレースケリー頼みの企画が多かったのです。旅行に積極的な若い女性の視点から見るモナコを企画の中心にすえたので、モナコ政府が気に入ってくれたのです。18年前でしたが、モナコがハウの一番古いお客さんとなり、以来、毎年、年間契約を更新しています。

その後、最大のピンチが。今にして思う「いじめてくれてありがとう」
ハウはモナコ政府のほかにもバング・アンド・オルフセンとかカレーライカレーラとか、リアドロ、あるいはこの秋オープンするペニンシュラホテルなど、クライアントを順調に増やして行きました。ところが会社設立約5年後にキャリア人生最大のピンチが来ました。
D企画が上場することになり、子会社の整理をすることになったのです。バブルもはじけ、ハウは売り上げが落ちてきていたので、つぶしてしまえという意図が背景にあったと思います。整理したいからと普通に言えば、あんな騒ぎにもならなかったし、私も仕方なく他の道を探すことになっていたと思いますが、つぶし方がなんともドラマティックでした。

ある時モナコ出張から帰ってきたら、D企画の役員に呼ばれ、「こんな状況で会社やっていけるの。あんたがいない間に内部告発があった。誰もあんたについていかないよ。この告発状はあんたの名誉のため誰にも見せてないけど、あんたも犯人探しはしないほうが良い。」と言われ、私はショックで、部下と一緒に仕事もしにくい状況になってしまいました。そこで、ミーティングの時に正直に 「こういう話があった。皆を信用しています。この件に関しては、もし関係していないなら、関係していないというサインを欲しい」と言ったところ、全員がサインをしてくれました。これは明らかに業務上のセクハラです。皆がサインした紙を見せるとD企画の役員はとたんにオロオロです。なんとしても私を辞めさせたいけれど、そもそもがウソの話なので、D企画はそこの顧問弁護士にまで見捨てられ、何と私の会計士にどうにかならないかと頼んできました。「これはチャンスだ」という事で、資本金分を退職金としてもらって、ハウを自分の会社にすることができました。もし、D企画が正攻法で正面から辞めてくれと頼んできたら辞めざるを得なかったと思います。小細工をしてくれたから、有利になったわけです。D企画の男たちは私が泣いて辞めると思っていたと思います。男が女を馬鹿にしたから、このような逆転劇があったわけです。

長距離ランナーの男性。短距離ランナーの女性
私はバッシングが来るたびに、それをバネに、ポン、ポン、と一段ずつ上がっていったと思います。バネを上がるたびに、視点が高くなってくる。男性は、一生働いて、妻子を養わなければならないというトラウマがありますが、女性には選択肢がもっとたくさんあります。男性は一生仕事場を離れられない長距離ランナーですが、女性は短距離ランナーです。ガバッとがんばるから、ダッシュして男を抜いていく。でも、それで息が切れて脱落していく。今の社会は男が作ったものです。そこに女が入って行くのですから、そのことを理解していないと、バシッバシッとやられます。神聖な戦場に小生意気な女が状況もわきまえず入ってくるというのは、多分男性にとって、耐えられないことなのだと思います。男性を分かった上で、お互いの足りない点を理解して仕事をした方が得策です。彼らは自分の手助けになると思ったときはやさしくしてくれますが、自分の場を脅かす存在になると追い落とすことを考えるという事は分かっていたほうが良いです。

キャリアのことを聞かれることがよくあります。その時、「あなたはどういう一生を過ごしたいの」、と聞きます。「お嫁になりたいなら、一部上場の企業に入って、そこで物色してお婿をさがしなさい。キャリア専門で行きたいのだったら、もっと小さい会社に入って、そこで、いろいろなことをさせてもらいなさい。その内、自分のしたいこと、やりたいことが見えてくるから」、と言っています。

信頼関係とクリエティビティがモノをいう広報の仕事
広報の仕事に画一的なものは一つもありません。広告と広報の違いは、広告はお金を出してメディアのスペースを買い、自分の言いたいメッセージを送ることができますが、広報は、メディアにニュースを書いてもらうわけですから、ニュースを作るという事が重要になります。画一的なアプローチでは記事にしてくれません。常に、クライアントのマーケティング部という気持ちで、商品の見せ方、書き方、プレゼンの仕方を工夫します。有名ブランドなら、記者を集めるのは容易ですが、名がないブランドの発表会にどうしてきてもらうか、頭のひねりどころです。それには、まず、普段からの信頼関係が重要ですが、こういう関係作りは女性には得意な分野だと思います。また、常に何が新しいかアンテナを張っておく必要があります。当たり前の場所には誰も来てくれません。辺鄙な所でも面白そうだと思えば、話は別です。たとえばバング・アンド・オルフセンのテレビの発表会をする時に、場所にお金をかけられず、社員があるお寺を探してきました。お能を舞える友人を呼び、真四角な所にコンピューターグラフィックで竹がソヨソヨと揺れている映像を流し新製品のテレビのモニターに舞を映しました。お金はかけていなくても、ハウがやるイベントは印象に残るという評判を得ることができました。実際、お金がないから、工夫するわけで、ですから、仕事が面白いわけです。クライアントの商品の特長を見つけ出して、メディアに紹介する事が質の良い露出につながるのです。

社員は、一人一つはクライアントを持っていますが、言われたことをそのままするのでは単なる使用人ですから、それ以外に提案がなければダメと言っています。異業種とのコラボレーションなど賢いアイディアを出して欲しいと願っています。そのためにはいつも好奇心をもって、きょろきょろしなければならないし、山とある雑誌も、テレビも見なければならないし、ネットワーックも作らなくてはなりません。「お助けエージェンシー、ハウ」と言われるようにならなければと思います。

社員には「追加予算を取ってきたら、その利益はその人に返します」と言っています。そうすると「稼ごう!」という気になって、燃えるのです。PR会社は無数ありますが、女性には入りやすい仕事だと思います。私は海外の企業が日本に進出してくる時の架け橋になって、異文化紹介に貢献したいと思っています。

小さい時からの「人好き」が今の仕事に繋がって
小さい時から、バスガール、スチュワーデス、それから、国連のスタッフなどになりたいと思ってきました。考えてみると、常に人との接点があるサービス産業の仕事ばかりです。私は人が大好き、ネットワーク大好き、新しい分野の人と会うのは大好きなのです。皆さんも人と付き合うときは、質の高い友達と付き合いなさいね。どういう友だちを持っているかでその人の価値が出てきますから。

ピンチは乗り越えられる人のところにやって来る
ピンチというものは、やっと一つ乗り越えたとおもうと、次のピンチが来ます。仕事のみならず家族のことも同じです。でもこのごろは、「乗り越えられるから苦労が来る」という事がわかってきました。乗り越えられない人にはピンチは来ませんし、来ても気がつかないかも知れません。皆さんに申し上げたいのは、ピンチやバッシングにあったら「サンキュー」と思いなさいという事。ピンチがあなたを強くするチャンスなのですから。

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2007年1月28日 (日)

第5回 ㈱リクルート エグゼクティブマネジャー           野嶋 朗さん

あなたの可能性を大きく開く
リーダーとしてのコミュニケーション技術の磨き方

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まず始めに私の自己紹介を。
現在、リクルート進学カンパニーに勤務しております、野嶋と申します。
今回の講座にも関係するのでまずは私の自己紹介とともに、現在の仕事に関してご紹介させていただきます。

18歳人口の減少、大学全入というワードをみなさんは耳にされることがあるかと思います。ピーク時は205万人だった18歳人口は現在は約130万人。それだけ大学に入りやすくなった訳です。130万人のうち、大学に進学するするのは約70万人で専門学校に30万人が進学、残りの30万人が就職や進路未定者になります。
約700校ある大学の約40%が定員割れを起こしています。推薦入試やAO入試といった非競争型の選抜での入学者も50%を超えてます。つまり、130万人1世代の中、本質的な進学競争環境にある生徒は概ね2~3割程度ということになります。残りは非競争な環境のまま進学し社会に出て行く、そのような状況下、進学することの意味付けがとても難しくなっているのです。
提示されたままの進路や、深く考えないで進学する生徒が大変多くなっており、そこに向けたサポートや示唆を行っていきたい、というのが今の私の仕事の骨格になっています。

◆コミュニケーション技術の進化に関して

さて、今回のテーマはコミュニケーションです。
私自身のキャリアストーリーとともにコミュニケーション技術の進化をお伝えしたいと思います。

高校生までは、コミュニケーションという言葉は意識することはありませんでした。大学での就職活動で、しっかり会話ができなければ就職できないんだなという感覚は理解しましたが、コミュニケーション能力という言葉は知らなかったと思います。

会社に入り、リクルートは営業会社ですから現場に出るわけですが、一方的なコミュニケーションの域をでないレベルです。説得のコミュニケーション言いたいことしか言わないレベルです。その後、ひとつの部署を担当する、チームを担当するといったなかで、経験と知識や情報量に依存した会話から未経験のことに対する挑戦の難しさ、Mgtとリーダーシップの違い、管理と変革Mgtの違いに気づきます。35歳で少し経営に近づく仕事を担当するようになり、メンバーのパフォーマンスを上げるには共感のコミュニケーション、エンパワーメント、リーダーシップの技術を高める必要があることを痛感し、コミュニケーション技術の向上を意識し始めます。技術として置き換えることで本格的な進化が始まった訳です。39歳からメンバーの数が増えメッセージする機会の増加が急増し組織活性の意識、遠隔Mgt、ビジョンや言葉の意味や強さ、プレゼンテーションの技術などを意識しました。

現在、矛盾することに対する結論を出す難しさや、結論に人間性が問われるといったこと、説明責任価値観の違う人を動かしていく難しさなどを感じているといった状態です。
今回は、コミュニケーションそしてリーダーシップは技術であるという前提にたって、皆さんにお話をできればと思っております。

◆感じる力とインプット アウトプット力で運を引き寄せる

改めてキャリア教育の定義をすると、社会で必要な能力意欲態度を決める教育ということになるかと思います。そしてこれは、子どもたちだけでなく社会全体に進めていくべきものでもあります。

社会で成功する要因はなにかという調査があります。その3番目の回答に出てくるのが運やチャンス。ここで意図する運やチャンスはラッキーでたまたま当たったものではない、
実力に裏付けられた引き寄せられる運やチャンスと考えたい。運やチャンスを引き寄せるのは実力です。機会はある。その機会を活かせるせるようになるかどうかが、技術に裏付けられた実力なのです。

運やチャンをモノにするための3つの技術を伸ばす3つの力とは、「感じる力」「インプットする力」「アウトプットする力」です。

◆アウトプット力に関して

日々の工夫でアウトプットを高める、そして運やチャンスを引き寄せるのです。自分のアンテナとインプット技術の相互作用で、アウトプットは高まります。大事なことを大事と感じられる力がアンテナ力。これもトレーニングによって伸ばすことができる、大事なことを感じて要約する、情報を選別し要約したインプットに導くのがアンテナ力です。

インプットの仕方にも技術はあります。関連付けて記憶する、映像的な記憶法、インプット時に次善策を段取ることなどですね。トップスピードとロースピードのギアチェンジ能力も良いインプットにつながります。アンテナとインプットの相互作用で、アウトプットの質が変わるということを意識しましょう。感じて咀嚼して取り込んで吐き出す。アウトプットする時には、コミュニケーションをその場単体としてとらえず、開いた言葉にして意識しないと、会話の階段は上がっていかないのですね。

◆キャリアは偶然に支配されている

機会を捉える運やチャンスを引き寄せるという考えは、キャリア教育の考え方にもあります。クランボルツの理論です。キャリアは偶然性に支配されている、問われてもわからない人に問いつづけてもわからない。キャリアは偶然性に支配されるが幸運は偶然を生かすことで訪れる、といったものですね。オープンマインドで優柔不断を歓迎し、行動がラッキーをもたらす、準備が重要と考えることです。

他にも、コミュニケーションは多くの体系化の系図があります。仕事のための12の基礎力から第一能力の反応力について考えましょう。開発年齢は10代から20代。年をとるほど、特に男性はおろそかになるようです。椅子に座って生意気になってしまうのですね。素直に成長するには年をとるほど強い決意が必要。この力が弱くなると、人が集まらなくなるようです。コミュニケーションの基礎である自覚が必要ですね。

◆即効力のある、承認のスキル うなずき

では早速、反応力を高めるお手軽な技術を紹介します。承認のスキルです。コーチングとは相手を目的地まで連れていく技術で、コミュニケーションの基礎中の基礎。承認とは相手の肯定的な面を認めること、表現することですね。コミュニケーションは認めることから始まります。相手に存在を認めていますというメッセージを出すのが承認のスキル。変化を認めるのは以前の状態をも知っていることなのだから、二重の効果があります。ただし、容姿や服の趣味などには触れないことです。相手を傷つけることもありますから。

そして、反応力の最短技術はうなずきです。うなずくだけで相手を認めることにもなる。興味があるよ、と聞いているよというメッセージがうなずきで、共感のメッセージにもなります。相手をのせる効果もありますし、目をみるとさらに効果も絶大です。気持ちは伝染します。質問しようとすることから吸収力も高まり、疑問点もはっきりする。質問してやろうと思いながらうなずくと、吸収のレベルもあがり波長が相手と合ってきます。反応することから、相手の情報を引き出すことになるのです。

◆相手に強くすり込むコミュニケーション 言霊力と情熱と物語

多くのことは人の記憶には残らないと思うほうが良いです。その前提で、相手にに何を残すのかを考えぬく。残したいこと、大事なことは映像的に表現するのです。映像的な表現を意識すると難しい言葉もでなくなります。多対1のコミュニケーションでは特に有効で笑いもとりやすくなる。聞き手に強くインプットできます。物語のように話す、『』でつないで句読点を小さく区切って話す。エピソードをまじえる。といった工夫が必要です。

*サンプルを・・・・という質問に対して

次のテーマを映像的に話をしてしましょう。まず。。。レジュメ作りも映像的にというのを意識しています。

言霊力を磨きましょう。
相手のココロを動かすときに言葉を練りに練る事です。

たとえば。。。異動の内示の時
開口一番、何を言うか。おまえはだめだから異動だと、だから異動だと言えばあるいはそこに言葉を練った言い方ができなければ本人の気持ちを萎えさせてしまいます。言葉を作る、相手の心を動かす、手足を動かす言葉で伝える、大事な言葉にして残す。あれこれ言うよりも一言、よい言葉を練って伝えることが大切なのです。仕事のことは、翌朝になっても残るようなことばにしなければなりません。プロポーズの言葉を超えるつもりで伝えるのです。凝縮し凝縮し思いを伝えることで言葉に魂が宿るのです。

そして情熱を伝導するのです。本気で語ることです。リーダーよりも本気になるメンバーはいません。情熱は舌足らずもカバーできるのです。

そして物語を作りましょう。
大事な戦略を伝えるときには、物語にして伝えると信任をうけやすく信頼度が高まりやすいようです。相手から承認を得たいときには最初の一分で承認の不可が決まると言います。最初に面白い話ができるかどうか、成功の確信をもてるように話すのが重要なのです。

◆要望 ノンバーバル サイキングアップ

要望を恐れないこと。強く要望する、性差や年齢を超えた要望を恐れないことは会話の質を高めます。人は成長を望んでいるのです。流してしまわないで、深いコミュニケーションをし、要望することで前進するのです。前に進むために強く要望することで深いコミュニケーションが成立します。

ノンバーバルコミュニケーションという言葉はご存知でしょうか。表情は雄弁に語ります。
会話の中身は7%。残るのは表情や音声、それがその人の印象を決めることになるという考えです。

サイキングアップは自分らしく自分を信じることができるようになる技術です。僕は燃えよドラゴンですが自分の集中力を高めることができます。リラクゼーションはココロの沈静、ウォーミングアップはからだの準備、サイキングアップで自分を信じる状態に高めるのです。

以上で一通りお話をしました。

この後は質疑応答に入ります・・・(以下一部の質疑応答掲載)

◆質疑応答

Q. 部下や後輩が問題を指摘すると否定的になる。うまくいかない。
大事なことは何か?本人が自覚していないことも多い

A. 背景を話すことだ。現象面でなく、なぜしたいか、どうしたいかという話をするしかない。考え方の根幹を伝え、的に徐々に近づけていくしかない。行動面だけ否定しても変わらない。面倒でも深く会話すること。

Q. 反応力の低いメンバーには?

A. 教えることだ。コミュニケーションを実戦的にトレーニングすること。反応力でパフォーマンスが変わることや成長できるきっかけになることを伝える。反応することで関係性変わり成長することを伝える。コミュニケーションが技術であること。目標達成に近づくために、職場で大事なことだと教える。

Q.1対1と多対1のコミュニケーションの違いは?

A.たとえばブラインドウオークのトレーニングで理解できる。手をつなぐと安心だが放と不安が増大する。新しいメンバーへの導入の事例や先輩の乱暴な指導には有効だ。3歩の幅は人によって違う。乱暴な言い方をカラダで自覚すると理解が早くなる。体感することでコミュニケーションの乱暴さを実感する。多対1は態度だが、1対1はホスピタリティが大切。

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2006年12月31日 (日)

第3回 KIZUNAパートナーズ㈱常務執行役員 喰田祐司さん

あなたのレジュメは完璧ですか?
リクルーターが見るキャリアのポイントとその伸ばし方

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商売の原点を経験した高校時代。組織や人に興味があった大学時代

まずは自身がどういう歩みをしてきたかお話します。転機として、高校時代に商売の原点を経験しました。田舎の育ちで、地元のテキヤさんみたいな人が正月の注連縄を売るのでそれを手伝うというのが高校一年のときにあって、値付けからすべて何から何まで全部まかせる、在庫を全て売ったらお小遣いをプラスアルファであげるよと言われました。自分なりに一所懸命考え友人2人を誘い相談し、近所のお店を回っていくらで売られているのか調べて値付けして、一週間くらいで全て売り切ったんですね。それがすごく楽しくて商売人はいいなと思ったのが、最初の職業に至るきっかけでした。もともと組織や人がどういう風に動くかに興味があって、カーネギーの「人を動かす」などいろいろ本を読んでいました。大学時代はほとんど学校にいかず、アルバイト三昧、夜は空手。昼は頭を使って稼ぎ、夜はカラダを鍛える、そしてちょっとだけ勉強という学生生活を送っていました。いろんな人たち、特に大人に会う機会が多かったので、いったいどこに自分は就職できるのかと考えたとき、とにかくいっぱい会社訪問しようと思いました。

時代はまさにバブル絶頂、よりどりみどりに就職先があって、多分110社くらい回ったと思います。金融では銀行、証券、先物取引、流通では大手から洋服屋、メーカー、商社・・・考えられるところを全部回りました。そのとき聞いたことはシンプルで「どうやってもうけるんですか、それをもっともうけるためにはどうしたらいいいか、そのために何を努力しているのか」を聞いて回りました。その中でスッキリと答えてくれたのが、商社とリクルートしかなくて。どっちにしようか迷ったのですが、若手の人で面白かったのはリクルートだったので、自分にチャンスがありそうなのはリクルートと思って就職しました。その会社回りの時に聞いたことは今でも財産になっています。

さまざまな経験をした30代。天職にめぐり合えて40代に

リクルートに入ってからは、最初の配属が人事部、そして営業に異動し転勤も経験しました。33歳、もう新世紀だなぁということで、最初の転職をしました。ある会社に入社しまたが、自分が手がけようとしていた事業が撤退ということで、ほぼ全員リストラ。企業の雇用責任が如何に重いのかを実感した事件でした。あまりにもお金に翻弄される人たちに囲まれる日々がいやになり、35歳のときあるホテル再生事業の立ち上げに加わりました。そのあと介護ビジネス再生を任され、頑張ったものの経営陣の理解が得られない。自らの力量に自信がなくなりました。リハビリが必要と思い、リクルートグループのエグゼクティブサーチの仕事を3年限定でやることに。3年恩返しして、いいところがあったら自分が転職してやろうかと(笑)ところが、転職のご支援をするうちに、自分ができることはまだたくさんあるなと思えてきました。企業側と個人を「丁寧につなぐ」ことが、人材斡旋の業界ではまだおろそかにされていて。ヘッドハンターという言葉がありますが、企業側の代表者として、他社に勤めている人の「首を狩りに行く」わけですよ。こんないやらしいことばは世の中にはないと思いました。企業側の情報を個人はあまり知ることはなくて、また、企業側もその人のことをちゃんと知ることが難しいので、これを徹底的にちゃんとやる人になりたいなと思っていました。

一年くらい経つとだんだん自信も出てきて、業績もよく、「これはもしかしたら天職かもしれない」と思えるようになりました。それが38歳の頃です。ところが私を誘ってくれた常務が会社を去ることになりました。世の中からヘッドハンティングという言葉をなくしたいということなど理念でも共感し、尊敬する方でしたので、昨年10月に一緒にやることを決め、今に至っております。職業人としては悩み多き30台でしたが、40代になった今、こんなに楽しい日々はないなと。ご支援頂いているお客様方に心から感謝している毎日です。

天職マーケット 4つのゾーニング

人材は大きく4つに分けられます。「エグゼクティブゾーン」、「次世代経営幹部ゾーン」、「新しい機会模索ゾーン」、「新卒・第二新卒ゾーン」です。たとえばリクルートエイブリックは「第二新卒」から「新しい機会模索ゾーン」を、インテリジェンスは「新しい模索機会ゾーン」から「次世代経営幹部ゾーン」の半分くらいまでを主に扱っています。「次世代経営幹部ゾーン」から上が「エグゼクティブサーチ」と呼ばれるゾーンです。KIZUNAパートナーズ社としてお受けしているのは、概ね年収ベース1300から1400万円以上の求人案件です。
年収1000万円で経営者でない人は全就業人口の中でどれだけいるのかご存知ですか?正解は全国で7%なんですね。東京では4万人程度です。ではその方々が実際に動いていくときにどこを目指すのか? 最近では自分の経験してきた軸を継続的に追求するというマーケットだけではないと思います。企業の中だけで昇り詰めていくだけがキャリアメイクではないのです。
企業以外のマーケットとしては、非営利法人(NPO、NGO)、公務員、議員、起業、自営、士業(サムライ業)などがあります。実は職業選択の幅は非常に多いということを知っていただきたいのです。特に女性はパートナーの存在や実家に暮らしているなどのなんらかのセイフティネットがあれば、これだけ職業選択のチャンスがあることをご理解下さい。

女性のチャンスは広がりつつある

女性の役職者に占める割合ですが、部長2.8%、課長5.1%、係長10.4% (企業規模100人以上、厚生労働省調査より) となっています。ただしこれは100人規模の企業の場合で、小企業の場合はもっと比率が高い場合もあります。

企業サイドの要請として
・市場の半分は女性で成り立っていること
・購買行動の意志決定者は女性が多い
・B2C市場において女性の活用は必須、女性の感性と細やかさが大切になっている

また、マーケットの要請としては
・小品目大量生産の時代は終わり、多品目少量生産へ
・本当にほしいものしかほしくない消費者
・自分にないニーズはわからない開発者

株主の要請(企業社会責任)により、資本と経営が分離、優れた経営者に人材が集まりマーケットが呼応する時代へ。また商法大改正により新会社法が施行、起業が容易になり市場からの監視が厳しくなってきました。この分野においては男性より女性の得意分野ともいえます。

また強烈なロールモデルも登場しています。隣のお姉さんが社長になる時代、ちょっとしたアイデアで起業も可能、本気でやりたい人には情報、ノウハウが手に入りやすい時代になりました。

みなさんの思い次第で、チャンスが掴み易くなっているのです。

どんなところにポジションがあるかの案件の例

・上場食品会社マーケティング本部長(取締役候補)
なぜわざわざ外から、しかも女性マーケティング本部長なのか?これまでこの領域を作ってきたのは男性、取締役に女性はいなかった。しかしながら食品という領域で実際に手にとっているのは女性であることから、本当の意味で女性に対してアピールできるよう、社会的企業責任という意味においても統括的に見てくれる女性が必要となった事例です。

・上場IT系サービス会社幹部クラス
社員が誰も出社しない会社を作りたい、それに対応する人事制度を作りたい。パソコンとネットワークさえあれば仕事になる。女性で子育てをしていて一線から退いた方が、在宅で仕事をしてくれるようなことを考えられるように、幹部に女性がほしい。

・独立系人事コンサルティング会社幹部クラス
人事制度の設計サポートの会社。女性の結婚退職、出産休職などを理解しできて、事業のスピードを落とさないような提案ができる人材がほしい。

・上場食品会社(再生)
社長とマーケティング部門に女性を招聘し、新しい領域を作ることを求めている。

転職市場に出るときの注意点

まずは「ウソにごまかされない」、「自分に素直になること」が大切です。

「ウソにごまかされない」とは、
・資格を取れば安泰はウソ →いわゆる士業の弁護士、医師は食べられる資格。中小企業診断士をとるだけでは食べられない。外資系で評価されようと思ったらTOIEC930点とらないと話にならない。どの資格をとるかの選択の前に、その資格をとって人生にプラスになるのかを冷静に考えなければならないと思います。せっかく取得してもまったく資格が生かされないという人を多く見てきました。取得する時には本気でとる、取得したらどう生かすかの戦略を持たなくてはいけないのです。

・転職は30代前半まではウソ →さきほど紹介した事例は40台~50台でもOKなものばかりです。でもなぜ30代前半といわれるのでしょうか?30代前半は、レーン(職種)チェンジはまだ容易ですが、40歳代でいきなりレーンチェンジは難しいというのが理由とされているからです。ただし、転職という観点では必ずしもそうではないこともあります。

・女性は選択肢が少ないはウソ →前述の通りです。

・子供を産んだら働けないはウソ →パートナーの理解などサポート体制はあらゆる手段を使って構築することが必要です。

「自分に素直になること」とは、
・他人と過去は変えられない →変えられるのは自分だけ。自分に欲求に素直になっているか、いつも確認すること。

・新しいきっかけは過去に眠っている →子供の頃楽しかったこと、原体験など自分を振り返ると、そこに答えがある。自分が楽しいと思えること、達成感があったことを書き出してみると、自分がやりたかったことを思い出す。素直に受け入れる勇気を持つ。

・軸を間違いない →たとえば携帯電話をあまり使わない人は、NTTドコモに就職するのはちょっと違いますよね。

・夢を目標に置き換えてみよう →①目標をいつ達成するか日付を決める、②出来る限り具体的に書く、シーンや各論で。③積極的にその目標を人に言って自分を追い込む、④どうやったら到達できるようになるかを決めて、必ずやる。誰に何を言われようとも、絶対に。

レジュメを書く前に、まずは自分の振り返りと目標確認を

ぜひお伝えしたかったのは、目を横に向ければもっともっと選択肢があること、また世の中で言われていることを鵜呑みにせずに、本当に自分のやりたいと思うことをおやりになれば、道は拓ける。その上で、自分がやってきたことをどうレジュメに書くか、ということが初めてできるようになるわけです。ここに至るまで長い道のりではあるのですが、人生にはそんなに多くの時間があるわけではありません。まずは今日から自分の目標って具体的に書くとなんだっけ、ということから始めていただきたいと思います。

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2006年11月23日 (木)

第4回 (有)T-POT代表取締役 御手洗照子さん 

「心を繋ぐものに魅せられて
商品コンサルタントとして起業するまでの道」Img_0468__1

始めに。仕事に対する私の気持ち
普段、自分の仕事である商品関係のことで話すことはあっても、自分の人生の事を話すのは初めてなので、気恥ずかしい気もするのですが、このような会にお呼びいただいて嬉しく思っています。私は現在、T―POTの代表をしていますが、何をしているか分からないと思うので、私のホームページで端的に自分の気持ちを語ったところを読ませていただきます。

「ものは心をつなぐ」
ものを媒体としたコミュニケーションに興味があります。
アートも、商品も、手のひらに載る茶碗から、建築まで、ものは語り
時代と空間を超えて心を繋ぐことができると思っています。
川上から川下まで、つまり、産地の製造元から 流通のただなか、そして専門店から百貨店まで、流れにすべて関わって、今に受け継がれる技、知恵、心を活かし
共感を得られるものをめざして、作りたいとおもいます。
作り手の手から使い手の手まで、確実に渡るものこそ、良い媒体でしょう。
ボブ・ディランの「角の八百屋も詩人になれる」という言葉を信じています。

私のキャリアストーリー
長く続いた「ウロウロ時代」

「高校時代、何になりたかったか」と子供たちに聞かれると、「詩人になりたかった」と言って煙に巻いています。私は詩人になれる人間ではなかったけれど、こういう気持ちは今も心のよりどころになっています。
絵も描きたいという気もあったのですが、とりあえず、大学は好きだった仏文に入りました。大学時代は、あり余る時間を読書と画廊めぐりに費やしていました。70年代は、まだ女性が大学卒業後、皆、仕事を持つという時代ではありませんでした。卒業したとたんにポーンと一人、野原に放り出された感じで、呆然としたのを覚えています。当時やりたいことは、インテリアデザイナー、コマーシャルフィルムのディレクター、イラストレーターなど、何故かカタカナ職業が多かったのですが、望めばなれると思ってしまうのが若さでした。インテリアデザインやイラストレーターの学校に通ったり、電通映画社のディレクターの人を紹介してもらったりしました。そういうディレクターや、名の知れたイラストレーターについて歩いたりもしましたが、実力もベースもないのに仕事になるわけもなく、20代後半まで、何年間も今で言うフリーター状態でした。

無駄ではなかった「無駄なこと」
私が焦って「仕事、仕事」と言い出した頃、電通映画社のディレクターの人が、今にして思えば、とても印象に残ることを言ってくれました。それは「仕事を始めてしまったら、いやでも収斂していって、本当に狭いところが自分の専門になっていってしまう。もし、今、無駄なことをできる状況なのだったら、間口を拡げていくらでも無駄なことはやったほうが良い。」という言葉でした。当時は、信じられませんでしたが、今になってみると本当だったなあと思います。一度、仕事の流れに乗ってしまうと、無駄なことに費やす時間が殆ど無いのですが、あの時代、あれだけいっぱい無駄なことをしたという事は、本当に無駄ではなかったと思います。

初の仕事で人と繋がることの面白さを知る
あの時代のほとんどの女性と同じく、いずれ結婚すると思っていましたから、仕事は二の次ぎ三の次ぎという気分もありました。失恋して結婚の予定がなくなると、もはや無駄なことをしている場合ではないと思い、突然、真剣に仕事をしなければ、という気持ちになったのです。どうやって仕事を探してよいかも分からず、家にあった朝日新聞の求職欄で、銀座に雑貨店を立ち上げる為のバイヤーの求人を見つけました。バイヤー職なんて、右も左も分からなかったのですが、ともかくスタートしました。会社から予算をもらって、一人で外国に買い付けに行って、良い結果を出すなど、けっこう成功しました。仕事はものすごく面白く、こんな面白いことをしてお給料を貰えるのだったら、こんなにいいことないと思いました。ものをメディアとして、人と繋がることの面白さ、快感もここで知りました。

人生万事、塞翁が馬。倒産、転職、そして
この店自身は上手く行っていたのですが、会社の他部門の不祥事で店は2年で倒産してしまいました。ある朝、会社に行くと、強面の人達が取り立てに来ていました。仕入れ担当でしたので、取引先は私しか知らない場合もあって責任を感じたり、また、脅迫状まがいのものも来たりで、一時はノイローゼ状態になりました。ただ、混乱の中で嬉しかったのは、倒産したその日に、仕事で知っていた西武百貨店の家庭用品部長の方から連絡があり、「御手洗さん、人生万事、塞翁が馬。すべてはあざなえる縄の如し。どうぞ、西武百貨店へ」と言っていただいたことです。当事、西武は時代の最先端を行っていて、アート的なことにも力を入れていたので、しばらくして落ち着くと西武に行くことにしました。
ところが私には癖があり、何事も最初はどうも上手く行かないのです。何回もころんで、最後に上手く行くことが多いのですが、これは運ではなくて、私のキャラクターによることだと、今なら良くわかります。つまり、私は考えなしで突っ走るので、最初はころんでしまうのですが、たやすく諦める方ではないので、最後には上手く行くというのがパターンなのです。この時も声をかけて下さった部長が異動になり、会社は私の処遇に困ってしまうという具合でした。

アルバイトの身から自分の居場所の確立へ
西武では希望して商品開発室に入ったのですが、正規社員でなく、長期アルバイトという不安定な待遇でした。面白い部署でしたが、完全な徒弟制の現場で、先輩の背中を見ながら仕事を覚える状態でした。何ヶ月たっても何も始まらないのですが、そこには大変な量の資料があり、元来、読書好きの私は、山とある雑誌を片端から読んでいました。3ヶ月くらいたった頃、アイディアが形になり、室長へ提案したのがとうり、「それでは売り場にしてください」という事で、家具とファブリックの専門家をつけてくれました。アルバイトの身なのに、ディレクターの仕事をさせてくれたのです。フレンチプロバンスのプロジェクトだったのですが、前年度比160%も売れる事もある成功で、これで、開発室での自分の居場所もでき、正社員にもなれました。それからは新しいプロジェクトを次々と提案しました。そして「世界一周して面白いものを探して来い」という事になり、一人で世界を回ったのですが、旅の後、「世界にはもう何もない。次は日本発だと思います」というリポートを出しました。ちょうどを世の中も日本回帰の気分の時で、<西武くらふと>を経て<ジャパンクリエイティブ>など、日本発プロジェクトが次々と生まれていきます。

救われた父の言葉
全て順風満帆というわけではなく、時には職場の上司との関係が難しくなることもありました。あの時よく辞めなかったと思いますが、父親に相談したところ、笑いながら、「電車と上司は次がある」と言われました。「ああ、そうか」と納得して、救われた気持ちになりました。今、皆さんの中で、上司で悩んでいる方がいらしたら、この言葉を贈りたいと思います。電車と上司は、必ず次が来るのですから、次が来るまで、じっと待てばよいのです。悩む必要などないと思います。

結婚、出産、そして専業主婦に
30歳で、母親が亡くなるとしばらく大いに落ち込みました。立ち直り始めた頃、友人の紹介で、急に話が決まり結婚することになりました。結婚しての子育てと仕事の両立など、あまり心配もせず、何も計画的に考えなかったような気がします。子どもが欲しいと思っても、いつもの私の癖で、最初は上手く行かず、流産を二回し、このままでは子どもを持つのは無理だなと思い、嘱託になりました。それまではワーカホリックで、仕事が楽しくて仕方がなかったのに、子供が欲しいと嘱託になったとたん、5時のチャイムと共に、立ち上がって、帰り支度を始めるようになったので、「御手洗さんを見ていれば時計は要らない」といわれたほどでした。子供は3人恵まれ、3人目の誕生と共に、自然に専業主婦になりました。

「恩返し」と「恩送り」
皆さんの中には、子どもを持つことを、迷われている方もいるかも知れませんが、この頃、私は「恩返し」でなく、「恩送り」という事をよく思います。とても心に響く言葉です。「恩返し」はある人に貰った恩をその人に返すことで、これはなかなか難しいこと。私も母を亡くしてしまったので、恩を母に返すことができませんでした。でも、「恩返し」でなく、「恩送り」でいいのではないかと思い至りました。「恩送り」では恩をくれた当人でなく、他の人に返せば良いのです。例えば、子育ては親の恩を子に返す「恩送り」だと思います。必ずしも自分のDNAを持った子供でなくても良いし、少し広く考えて、若い人を対象に考えてもよいと思います。日本の人は、血にこだわって、その辺を少し狭く考えすぎているのではないかと思うのです。

10年間の休業中も、仲間との飲み会だけは皆謹
子育ての間に10年間休業し、その後どうやって仕事に戻れたのかと良く聞かれます。西武に戻るのは無理だったので、自分で起業しましたが、1,2年は、何事も起らず、ことは動きませんでした。ただ、10年間の休業中、昔の仲間との飲み会だけは絶やさずに出かけていたので、細い糸だけど、社会と繋がっていたのは、このネットワークのおかげだったと思います。人と人との関係は、会社を離れても消えないという事も知りました。たとえば、職人さんや作家との付き合いは消えませんでした。そういう人たちの産地を訪ねて行って、そこから次の仕事の発端ができたこともあります。そのうち、だんだん、「また仕事を始めたの?」と声がかかるようになりました。サラリーマン時代も、フリーの時代も同じですが、大事なことは一つでいいから、まず成功することだと思います。「アレが成功した」という事で、次が繋がっていくのです。私の場合も最初の雑貨ショップの立ち上げが成功して、次が繋がったと思います。

「ナンバーワン」より「オンリーワン」
サラリーマンでも、フリーでも、競争や人間関係から、皆、ストレスとの戦いがあると思います。そんな時、私は「他の人が、やりたい、そしてできるのなら、その人がやればよい」と思うことにしています。本当に自分がやったほうが良いことは遅かれ早かれ自分に、まわってくると思うのです。傲慢に聞こえるかも知れませんが、これが私のストレスフリーのためのおまじないです。適材適所、違う言い方をすると「ナンバーワン」より「オンリーワン」。少々手垢がつきましたが、この言葉は真実だと思います。

仕事力は哲学力と持続力
哲学力という言葉が適切かどうか分からないのですが、例えば、新しいプロジェクトを始める時に、その事の背景や全貌を知っておくのは非常に重要です。俯瞰してみる能力、つまり総合力が大事なのです。そして全体を見ながら、ある専門部分は誰よりも良く熟知していることも必要です。空から見渡す鳥の目と真近からじっくりと見る虫の目がいると思います。自分も昔、紆余曲折を繰り返していた時の無駄が無駄ではなく、総合力の一助になっているかもしれないと思う時があります。今、時代は複雑系というか、ますます全てがボーダーレスになる様相を呈しています。物事を大掴みに把握する力、総合力がますます大事になってきていると思います。

最近感じることは能力にはそんなに差は無いのではということ。能力の違いはあっても、能力の高低の差というのは、それほどないのではないかと思うのです。何が差を作るかというと、「志」。若い人たちには「何になりたいか」ということより「どういう志で生きたいか」という事を大切にして欲しいと思います。ネットワークを作りたいと思う時、同じ能力の人間以上に同じ志の人間を求めるのではないでしょうか。そして、組織の中では志が高い人がリーダーになるべきだと思っています。志の高い人がリーダーの組織が良い組織でしょう。今は縦型の社会ではなく、横型の時代。横に人びとを繋ぐネットワークを作っていけば、社会を動かすことができます。そういう意味では面白い、良い時代だと思います。

そして仕事力は、持続力でもあります。ありふれた言葉ながら「継続は力なり」ということは真実です。細い糸でも繋がっていれば、昔のことも活きてきます。無駄があっても良いということと、継続は力なりということは同じことがらの裏表と言えます。

仕事を続けていると、仕事もそれなりに大きくなります。一人でできることには限りがありますから、良い仲間を持つことがとても大事です。ですから、今、望んでいることは、若い創造力にあふれた人たちと一緒に仕事をするという事です。その意味でも、今日はお仲間を紹介していただいてとても嬉しく思っています。ありがとうございました。

この後、スライドで、実際の商品開発の仕事例を多数紹介。説明割愛。

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2006年10月26日 (木)

第2回 株式会社電通 白土真由美さん

「自らの価値観の追及がもたらした組織の活性化と
 CSRによる新たな社会価値創造の可能性」

講師 (株)電通 IMCプランニング・センター ソーシャル・マーケティング部プランニング・ディレクター

白土 真由美氏

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皆さま、こんばんは。白土です。よろしくお願いします。
皆さんも緊張なさっていられるようですが、私も緊張状態です。長丁場ですのでどうぞ、リラックスしてお聞きください。

今回は、ご親交をいただいている松信さんからのご紹介というか、プレッシャーがありまして(笑)、お話をお引き受けすることになりました。松信さんは、以前、私が営業の駆け出しの頃のクライアントで、その後も先輩として常にエンカレッジしていただいています。今回は、このキャリアカフェを通じて、若い世代の働く女性を応援されたいというお話でしたので、私が過ごしてきた道や、谷も多かった会社での経験をお話することで、多少皆さまのお役に立つことがあればと思って、お引き受けすることになりました。あと、CSR(コーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティ)という企業の社会責任が本日のお題でもありますもので、少し話が硬くなってしまうかも知れないのですが、それについても簡単にご紹介したいと思います。

剣道の防具の臭さに満ちた花のない高校生活

キャリアカフェのコーディネートをされている阿部さんから、入社してからのキャリア・ストーリーを話して頂きたいという事でしたので、少しお話したいと思います。高校時代は暗い青春を送りました。父が剣道の師範をしておりましたので、剣道以外はダメと言われ、他のスポーツをしたかったのに泣く泣く剣道三昧。おかげさまで、二段です。剣道はもちろん、いいところもあるのですが、防具が臭いんですね、特に夏になると(笑)。他人が使い回した臭い防具で練習をし、まったく花のない青春でした。

願うは自活。キャリア意識なし

その頃は、自分がどういう大人になって、どういうキャリアを作っていくのかについて、まったく考えていませんでした。ともかく、早く親元から独立して家を出て、自活することしか頭になく、高校卒業後、津田スクール・オブ・ビジネスに入学しました。ここで英語をある程度身につけさえすれば、商社などへの就職の際に有利だという事で真面目に勉強したのですが、この2年間で私が全く期待していなかったものを手に入れることができたのです。高校時代も英語は嫌いではなく、教会に通ったりして、聞くとか話すとかの真似事程度ならなんとかできたのですが、書く事は殆どできなかったので、それをビジネススクールで鍛えて頂いた結果、今とても役に立っています。

何も分からず電通に入社。これが仕事?

津田SOB卒業後、商社を受験したのですが、あっさりと落ちてしまい(笑)、そのタイミングで入社試験を受け付けている企業は電通しか残されていなかったので、どんな会社かよく分からないまま入試を受けました。入社後の配属先は、クリエーティブ局という広告を作るセクションの総務課だったのですが、新入社員ですから、毎朝新聞を配ったり、出退勤簿をつけたり、が主な業務でした。広告代理店という仕事柄、スタッフが毎晩遅くまで働きがちな環境も手伝って、当時は仕事が終ると、そのまま酒盛りが始まることもよくありました。会社は9時半から始まるのですが、毎朝8時半に出勤し、洗い桶2杯くらいの量の前夜の宴の残骸を洗うことから一日が始まるのが当時の日課でした。私自身は、お酒に弱い体質なので、洗っているうちに給湯室で気分が悪くなったりした事もありました。また、今日のランチは「お蕎麦で!」という事になると、唯一の楽しみだった同期社員とのランチをキャンセルして薬味の葱を刻みながら涙する、ということもよくありました。「これが仕事というものなのかなあ」と悩んだ末、「こんなことじゃいけない。多少は英語を身に付けたのだから、これを武器に、仕事で外国に行けるフライトアテンダントを目指そう!」と安直に考えてはみたのですが、「体力的に大変だよ、君には務まらない。」と冷静な友人にアドバイスされ、怠惰な性格の赴くまま、そのままズルズルと電通でお世話になっておりました。

外資系クライアントに鍛えられ、社会性の萌芽も誕生

そんな自問を繰り返していた23歳の時、盲腸をこじらせて1ヶ月くらい会社を休んだのですが、快復して出社したところ、突然の異動命令で外資系のクライアントを担当する営業局のアシスタント営業職となりました。当時は雇用均等法施行前で、女性には事務補助職という名目でしか就労機会が与えられていなかったのですが、たまたま外資系アカウントを担当していた同期入社の女性アシスタント4人の中の一人が退社したため、多少英語ができそうだという誤解から、その後任として抜擢されたようです。そして、その後の十数年は営業局員として、ネスレ日本、アリカン・エクスプレス、タイム・ライフ、パシフィック・アイランド・クラブ、ジェネラル・エレクトリックなどの錚々たるクライアントに鍛えていただくことになりました。外資系企業ではコンプライアンスが非常に強いのですが、その中でも一番厳しいと評判だったA社では非常に緻密な財務管理が求められた結果、一銭一厘に至るまでのエビデンス資料提出のために多くの時間が割かれ、担当として非常に苦労はしたのですが、ある時、予想外の事件がありました。社内的には長い歴史のある地方新聞社との共同企画で、新聞広告掲載料金の一部を書籍に換えて、全国の養護施設に対して寄付するというプロジェクトがあったのですが、その年は非常に景気が悪かったため、常連クライアントはおろか、新規クライアントへのプロモートも叶わず大きな問題になっていました。一紙分だけでも付き合って頂けないだろうか?との万一の望みをかけて、A社にプロポーザルを持参したところ、「これ、誰も乗らないと困るんでしょう?」と思いがけないリアクション。のみならず、地方紙連合53紙全てへの出稿を即断して下さったのです。「あのA社が?ありえない!」「えっー、まさか・・」と、悪名高かったA社が、この事件で一躍ヒーローとなり、社内は大騒ぎになりました。A社は予算の使い方に関しては非常に厳しい企業でしたが、妥当性さえあればちゃんと払うという素晴らしいポリシーを持っていたのですね。外資系はすごいと思いました。この頃、始めて私の中で企業の社会性に関する萌芽が生まれたと言っても良いかと思います。また、自分のキャリアという事を考え始めたのもこの頃でした。外資系クライアントの営業を10年位経験し様々なことを学ばせて頂きましたが、その学習のストックが、スペシャリティとして自分の中に蓄積されていない事に悩み始めたのもこの時期です。

弾けられない体質が露見したコンベンション・プロデューサー時代

私が32歳になった頃、ニューヨークにジェーコブ・ジャビツという大きなコンベンション・センターができたのですが、そこを視察してきた経営者が「次はこれだ!」と閃き、コンベンション業務室新たな組織として誕生しました。会議、レセプション、旅行など、コンベンションに関わるさまざまな業務を一括してプロデュースするセクションだったので、スペシャリティを磨くには格好のテーマに思えましたし、引っ張って下さる先輩もいらしたので、ここからコンベンション・プロデューサーの道を歩み始める事になりました。初仕事は、NYとパリの大企業を相次いでM&Aで買収したばかりの資生堂さんのグローバル・コングレスでした。高輪と新高輪ホテルを貸し切っての一週間に亘るイベントの参加者は35カ国からの3500人。 三社一堂に会してのこの一大イベントを仕切る自信は全くなかったのですが、上司のサポートもあり、なんとかやり遂げたことがその後のプロデューサーとしての大きな自信に繋がったと思います。そしてその後の10年ほどは、プロデューサーの道を歩むことになるのですが、そもそもイベントというのは、本番当日までガーッと突き進み、その成果が見事に結実する結果を目の当たりにできるのが最大の醍醐味。「やった、やった!!」と盛り上がってこそ楽しい仕事なのですが、私自身はどうやら弾け難い体質らしく、周囲が盛り上がれば盛り上がるほど、何か内省化して寂しくなってしまう事に気づかされ、もう少し本質的に自分に合ったことをしたいなあ、と再び悩む日々でした。

紆余曲折の40代。価値観の危機に直面

40歳代は紆余曲折の時代でしたね。長野オリンピックや2002ワールドカップなど、いろいろな大型イベントに携わる中で、所属局も転々としていました。環境が変化する中で、いろいろな価値観にぶつかり、自分のレゾン・デートル(存在理由)があいまいになっていた時期だったと思います。そんな自分自身が揺れているタイミングで、センセーショナルな事件がありました。その結果、女性の所為ではなかったにもかかわらず、現場業務に携っている女性社員7人が全員、管理部門に異動させられることになったのです。雇均法施行前の入社だった私の世代では、良くも悪しくも「機会を与えられたら、ちゃんと責任を果たさないと、後に続く女性達に迷惑がかかってしまう。」という、仕事に対する自分なりのミッションがあり、そのため肩に妙な力が入っていた部分はあったのですが、この情け容赦のない人事異動によって、それも突き崩されてしまった。「今まで20年間コツコツと積み上げてきたものは一体何だったのだろう?」と自問することになりました。その結果、自分の価値観が、組織オリエンテッドでなくて、もうちょっと引いたところ、電通全体とか、クライアントと電通とか、メディアと電通とか、もっといえば、社会とか。 この時期に、自分の視点がどんどん高く広くなっていったのではないかと思います。空間的にも、時間的にも。その結果、持続可能性、というとCSRのベースになるのですが、そういう事がとても気になりだました。広告の仕事を翻ってみると、自分が携ってきた業務のビジネスモデル自体が、資源の大量調達、大量生産、大量流通、大量消費、大量廃棄モデルを加速させている事に気づき、「流石にもうこの業界では働けないなあ。」と、真剣に転職を考え始めました。

たどり着いたオールウィン・デザイン。自由演技で始めたCSRが規定演技に

とはいえ、先ほどお話したように、本来怠惰な性格なので、「なんとかこの会社では働きながら、マーケティング・コミュニケーションという現業を通じて、企業とかメディアとか、もっと言えば生活者のパーセプションを持続可能なモデルにシフトできるコミュニケーションができないだろうか? そうすれば、私もハッピー、生活者もハッピー、会社もハッピー、クライアントの持続可能性も担保できるのではないか? などと、非常に都合の良いことを考え、全く個人的な動機から、ユニバーサル・デザイン(UD)とかCSRとかに細々と取組み始めました。最初の頃は、「金にもならないのに、一体何をしているんだ」といわれたり、「UDおばさん」とか「CSRオタク」とか、からかわれたりもしましたが、馬耳東風と受け止め、与えられた業務に支障を来たさない範囲でクライアントへの自主提案を続けるうちに、先ずクライアントが興味を示して下さるようになり、是非話を聞かせて欲しいと言って頂ける様なりました。既存の価値観に対するアンチテーゼを求める時代背景もあったと思いますが、ひとまず社会という旗を立ててみると、「是非一緒にやりたい」という社内有志が続々と集まり、社会価値を創造しながら電通のビジネスにもつなげるモデルを考える、「ソーシャル・バリュー・クリエーション」という、勝手連のようなチームが誕生し、ここからとても楽しいプロジェクトが次々に生まれました。もし仕事に、規定演技と自由演技というものがあるとしたら、当時の私にとってのCSRやUDは、まさに自由演技でした。でも会社も良くみていて、「そうは遊ばせてもいられない、高い給料も払っているのだし、これからはその自由演技を業務で実行せよ!」という事態になり、昨年7月に誕生したソーシャル・マーケティング部で、クライアントの社会的価値を創造するそれをする規定演技種目の代表選手になってしまったわけです。「なってしまった」と表現させて頂いたのは、クライアントとの合意の上で自由演技として思う存分取り組んでいた時代は、多少の怪我を覚悟の上でダイナミックな技にも取り組む事ができためたのですが、組織的合目的性を求められる組織人となると、まあ、ちょっと大変です(笑)。

とはいえ、当然正式な組織体となったからこその効果もありました。現在、部員は20名程度で、CSRに関する興味の度合いや理解度もさまざまなのですが、優秀な人材が加わると、私が考えもつかなかったような大きなダイナミズムが生まれる現象を幾度も遭遇しました。これは予想外の嬉しい裏切りであり新たな発見でした。また、若い人たちの中に新しいコンセプトの種が残されると、今度はその人たち自身がバージョンを上げた上で、新たなエンドーサーとなって周囲に働きかけていくスパイラルが生まれます。こうして個人的なアプローチに過ぎなかったCSRの考え方が、新たな知を伴って急速に広がっていく事が叶うのは、組織の持つ素晴らしい部分だと思います。ソーシャル・マーケティング部がキックオフする時に、「3年たったら辞める。その後は着物部をつくりたい。」と、上司に宣言しました。着物部というのは比喩なのですが、こう見えても、私は日本的なものが大好きなので、多くの方がジャパンバリューの恩恵に預かれるような環境に、将来の日本や世界がなれたら素晴らしいだろうな、と日々妄想を逞しくしているのです。それを現在の組織の中で実現できるかどうかは神のみぞ知る、ですね。

勝手連、「ソーシャル・バリュー・クリエーション」チーム誕生

これは、私の一番のお気に入りのプロジェクトで、「ウェルカムほじょ犬!」です。2,3日前の朝日新聞の天声人語にも紹介されていましたが、3年前に、盲導犬、聴導犬、介助犬の三つの機能を持つ犬たちの、不特定多数の人が出入りする民間施設や行政施設へのアクセス権を保証した身体障害者補助犬法という新法が施行されました。施行前までは、盲導犬だけが道路交通法の一環でアクセス嫌を保証されていましたが、聴導犬、介助犬にはそれまでその権利が認められていませんでした。交通機関などの実施する試験に合格すれば権利を認められるのですが、そのトレーニングのチャンスもないし、試験自体もとてもアンフェアなものでした。議員立法として通過した新法は、補助犬の育成を支援し、試験を通過した補助犬とユーザーのアクセス権利を保証する素晴らしいものです。ただし、その施行自体が、補助犬が新たに登場する場に遭遇する人々に予め認識されていないと、様々な不都合が予測されます。そこで、我々は、それまでは三つの機能別、更には個別の育成団体毎に制作されていたピクトグラムの統一化を図ることで、施行時のコミュニケーション・インパクトを最大化させること。そして、コミュニケーション・ターゲットを、既成概念を刷り込まれた大人ではなく、先ず先入観のない子供に設定したビジュアルとコピー開発に挑戦しました。「ほじょ犬」と敢えて平仮名にした理由はそこにあったのですが、お陰さまで、平仮名でほじょ犬と入力して検索して下されば、すぐに厚生労働省の該当ページに辿り付けるようになっていますので、是非アクセスしてみて下さい。また、それまでは「同伴可」と言う表現のピクトグラムもあったのですが、「可」が含むイヤイヤながらというニュアンスを失くすために「ウェルカムほじょ犬!」という発想の転換を提案しました。厚生労働省のウエブで紹介されているミニポスターとステッカーは、どなたでも無料でダウンロードして使用することができます。また、ポスターのタグライン「xxにもおじゃましています。」のxx部分は、たとえば「恵泉銀座センターにも」とパーソナライズすることができますので、ほじょ犬をウェルカムされたいという方は、是非このデータを活用して、障害者の社会参加の運動の輪をご一緒に広げていただきたいと思います。http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/hojyoken/
なかなか働き者のワンちゃんで、お陰さまで2004年にはコミュニケーション部門のグッドデザイン賞受賞という嬉しいご褒美も頂戴しました。

今や、企業の持続性に不可欠なトリプル・ボトムライン

さて、今日の主題はCSRですので、少し難しい話で恐縮ですが、ここから少し概論を述べさせて頂く事にします。この図は、トリプル・ボトムラインという図で、1980年代に英国人のジョン・エルキントンという人が考えられたものです。以前は、企業経営はシングル・ボトムライン、つまり、経営の安定性とか、企業の成長性など単純な経済的側面だけを追求しておけばよかったのですが、持続可能を目指す社会において、非常に大きなインパクトを持つ一大アクターである企業体自身が、環境的側面、さらには社会的側面にも配慮した経営のバランスを目指さなければ、企業の持続性も、ひいては社会の持続性も保つことができないという概念を表したにしたものです。CSRはその中核概念として経営そのもの考えられているため、この推進には、宣伝部とかブランディングなど一部特定組織ではなく、企業全体を統括するトップ自らが主体者となって能動的に推進するものと位置づけられています。

社会人として、会社人としての「のりしろ」があなたを変える

私自身も心がけ、部員にも話していることですが、私たちは、一人ひとり、会社人であると共に、社会人であるわけです。会社人として、また社会人としての「のりしろ」が重なる部分が多ければ多いほどストレスも少ない筈ですし、結果的に私たち自体が、仕事を通じても大きな社会資産になっていくのではないかと思います。私たちは、会社にとっては従業員という資産であるし、市民としてももちろん社会資産です。個人として、市民として、企業人として、私たち一人ひとりが、CSRを梃子にしたオールウィン・デザインの関係を作れないだろうか?と意識しさえすれば、会社の業務を通じて社会に貢献できることはいろいろとあると思うのです。そういう風に考えると、日々の辛いお仕事も少しは創造的に考えられるようになりませんか?

企業経営と社会貢献の関係を示した現場発想の電通CSRモデル*

これは、電通のCSRモデルです。クライアントといろいろな話を続けているうちに、試行錯誤の結果開発されたものです。アカデミズムを背景とした概念的なものではなく、現場からの発想から生まれたシンプルなモデルですが、企業経営と社会貢献をどのようにポジショニングするべきか、またそのプライオリティはどうかるべきかを示しています。このモデルではピラミッドが3等分されていて、一番下は、法令順守などの与件的領域。ここで違反を犯すと退場を宣告されるレッドカード・ゾーンです。今までは、2番目の層があまり注目されることなく、一番上の、ノブリース・オブリージュ(Noblesse Oblige)の領域、いわゆるメセナやフィランソロピーところが脚光を浴びていました。ここは、たとえば冠イベントとか文化イベントへの協賛などで、ブランド価値やイメージは上がるかも知れませんが、企業の現業動機とは直接関係のない慈善的領域です。その間に挟まれた真ん中を、私たちは戦略的領域と呼んでいます。企業が現業を全うしようとすれば、必ず何らかのネガティブ・インパクトが発生する可能性があります。たとえば携帯電話は便利ですが、ネガティブ・インパクトとしては、車内での電話、盗写、運転中の通話などが考えられます。ですから、ここはネガティブ・インパクトをゼロにしようという問題意識をもって、それを解決するための実質的な方策とともに、それをコミュニケーションする事で企業価値を向上させようという戦略的な領域です。つまり、現業と社会・環境の関係性を与件とした課題解決施策がこの領域の視点です。

近頃の生活者は多元的な情報源をもとに、企業活動をよく見ていますから、真ん中の戦略的領域における活動が正しく認識されないまま、一番上の慈善的領域の活動ばかりが目立ってしまうと、寧ろ「あざとい」という風に捉えるのではないかと思います。20年前でしたら、「おしゃれだわ」と好意的に受け取られていた活動も、戦略的領域の活動実態が認識されていないと「そこはどうなっているんだ!」と厳しく問われる時代になったということでしょうか。また、企業の現業動機や独自の経営資産に根ざしたテーマに注力することで、他の企業がたやすく真似できないオリジナリティの高いCSR活動を導き出すことが重要で、結果的に企業価値の向上に貢献するチャーミングなCSRが実現すると思います。

※このモデルは電通が著作権を有しますので、許可なくご使用になるのはご遠慮ください。編集部より

CSRはさまざまなアクターがハッピーになるオールウィン・デザイン

個人、企業、社会のオールウィン・デザインを考えることができる概念がCSRではないか、と私は考えています。企業に、トリプル・ボトムラインの意識を持って働いている社員が多ければ多いほど、企業体質は強くなると思いますし、優れた企業では、そういう人材を切望しています。また、それらの人々が、何が持続可能な商品やサービスなのかを見極める選択眼を持ち、積極的な購買行動という形で様々な企業活動を支援する意志を表す事もできます。考える企業人として、また考える一生活者として、私たちは持続可能な社会に対して大きな貢献ができる可能性が沢山あります。

私は、そもそも企業活動そのものが非常に重要な社会貢献だと考えています。車や、水、電気、PCなどの恩恵がないと、現代社会で暮らす私たちは非常に困ってしまいますよね。つまり、殆どの企業体は、その存在が許されているからこそ、市場に受け入れられているとも言えるのではないでしょうか。けれども、これまで厳しくチェックされてこなかった、企業活動から発生するネガティブ・インパクトに対して、ステイクホルダーの意識が鋭敏になり、企業意識や行動を厳しく追及する時代になったのではないでしょうか?

日本には、「徳は密やかに行うべきもので、他人に言うべきものでない」、つまり陰徳という言葉があり、その美意識が尊ばれた時代がありました。でも、本来、リターンを求めずにコッソリ取り組む活動は、極論を言えば、株主背任行為にもなり得ます。CSRによって企業価値を向上させようとする意志を持つなら、ここは少し考え直す必要がありそうです。ビジネスとしての投資によって、然るべきリターンを求めるならば、多くのステイクホルダーに対してきちんと情報を共有し、その上で正負の活動評価を求める事が必要です。 つまり、企業は陰徳の時代から、トヨタさんのコトバですが、得を顕かにする「顕徳」の時代へと鮮やかにシフトすべき時期を迎えているのではないでしょうか。そういえば、中国では「陽徳」という言葉があるということ事を最近知りました。流石に長い歴史の国です。

私の考える仕事力とは?

阿部さんから、「仕事力」についての私の考えをご紹介するように、との事でしたので、最後に一言。私が考える仕事力とは「設問力」と「プロアクティブ」な姿勢です。疑問を持つという事は、対象に対する自らの視点があるという事に他なりません。また、プロアクティブなアプローチは、単に客観視して評論家になってしまう愚から私たちを解放してくれるのではないかと思います。とても難しいのですが、常に能動的であり続ける事は、私自身の命題でもあります。

それではこれから、スライドを使ったCSRの事例をいくつか紹介します。
(スライド説明は、省略します。)

しつこく持ち続けた自身のテーマが活路となった事例

今回のセッションの事前打合せの際に、阿部さんご自身が、興味を持って下さった私自身のキャリア・ストーリーは、華やかなキャリアを積んできたわけでもなく、転職をしながらステップアップをしていったのでもなく、自分の怠惰な性格を認めながら、同じ企業・環境の中で、何度も谷に突き落とされながらも、自分なりの言い訳とか、新たなモチベーションを見つけながらなんとか生き残りき、結果的に、企業や組織体が、社員の問題意識から発露されたテーマを追認してくれた点だそうです。私が組織を動かした、という大それた話では決してありませんが、少しでも皆さまの今後のご参考になればと思います。
どうもありがとうございました。

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2006年10月14日 (土)

第1回 株式会社リクルートとらばーゆ編集長 河野純子さん                

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「やりたいことの見つけ方チャンスのつかみ方」

河野さんが雑誌を作る仕事に興味を抱き始めたのは、高校生のとき。仕事に役立つからと大学時代は社会心理学を専攻、就職活動では迷わず出版社を選び、現在お勤めのリクルートに入社します。住宅情報誌の編集からスタート、会社が与えてくれたあらゆる仕事のチャンスに対し徹底的に向き合い仕事の基礎力を築きました。その後、副編集長に昇格し女性ならではの視点で特集、セミナーなどを企画、10年前にとらばーゆに異動し編集長に就任しました。女性のキャリアアップの機会創出のための事業開発にも注力し、今年4月からは「女性のライフ&キャリア研究所」を兼務しています。

“自分は未完成、また新しいチャンスがあればどんどん動いていきたい、来年何をやっているかはまだわからない、それが人生の面白さ”だとおっしゃる河野さんに、「やりたいことの見つけ方 チャンスのつかみ方」をテーマにお話していただきました。

まずはきっかけを作るために行動すること、必死にやってみることが大事

きっかけはきっとなんでもいい。あれがいい、これもいいと迷って一歳二歳と年齢を重ねてしまうよりも、何か惹かれることからまずはやってみること、そして必死でやってみることが大事。

私もなんとなく雑誌の編集の仕事がいいなと思って選びましたが、やってみたら頑張れたのですね。編集といっても、仕事の中味は企画を考えること、取材すること、原稿を書くことなどいろいろな要素があるわけですが、特に私は企画を考える作業が大好きで、それをやっている限りはまったく飽きなかったですね。この適性は今の「新規事業を考える」という仕事と通じる部分もあるのですが、自分が企画を考えることが好きだということは、本当にやってみないとわからなかったことですね。中には同じ編集者でも文章を書く部分が好きで、やがてライターになった人もいます。

だから、まずは何かきっかけをつかんでやってみる、そしてそこで何に対して自分は頑張れるのかを試してみる、自分の得意なところに気づいたらそれをどんどん伸ばしていく、そこに適職のヒントは必ずあります。そしてそれがもし適職ではなかったとしても、そこで必死に頑張ることで、どんな仕事でも通用する基礎力が必ず身につくのです。

その基礎力とは、以下の3つで語られています。

       対人能力

       自己管理能力

       対課題能力

対人能力というのは、親和力、協働力、統率力のこと、人はひとりでは仕事は出来ないですから、他の人といい関係を作って協力しあい、場をリードしていく力が求められます。

自己管理能力とは、感情抑制力、自信創出力、行動持続力のこと。気持ちをコントロールしたり、いろんな人とうまく付き合っていくなど非常に重要な基礎力です。前向きに考えられる力、学び続けることもここの力のひとつだと思いますね。

対課題能力とは、課題発見力、計画立案力、実践力のことです。

こういう基礎力が身についていれば、何か適職につながるきっかけが得られたときに、そこに自信を持って飛び込んでいくことができると思います。ですからなかなか適職が見つからなくても、今は基礎力をつけているときと思っていればいいんだと思います。

私自身の体験だけじゃなくて、これまで取材してきた方みなさん、口々にそういうことをおっしゃいますね。最初から適職なんてわからない、とりあえず目の前の仕事を一生懸命やってから発展させていけばいいのだと。

かつてのキャリア論は『自分を知り、職業を知れば、そこにベストマッチがある』というものでした。自分の棚卸をして成功体験を思い出す・・・それも悪くないんですけれど。でも自分の中にあるものは本当に小さなものであって、それだけで考えることには限界があります。

最新のキャリア論は、『キャリアは偶然性に支配されている』というのが主流となっています。これはアメリカのキャリア学者のクランボルツ氏のもので、調査によれば、実際にキャリアを上手に積んできた人のだいたい8割の人が、偶然の中で築いてきたということが発見されたわけです。ただし、偶然性に支配されているとはいえ、よりよいキャリアを築いていくためにはいくつかのポイントがあると言われています。

まずオープンマインドであること、そして頭の中で内省するよりもまず行動すること、そして偶然の機会を作り出す行動をすること。今日、キャリアカフェに来たことも機会のひとつですね。そして偶然の機会を生かす準備をしておくこと、これが基礎力をつけておくことですね。

もうひとつのキャリアモデルを紹介します。ワークス研究所の大久保幸夫所長が提唱していることですが、キャリアには筏くだりの時期と、山登りの時期がある、多くの人は35歳くらいまでは筏くだりの時期ではないかと。フリーター問題で何がもったいないかというと、正社員とアルバイターでは、会社から期待されること、与えられる仕事が異なると。要するに下っている川の流れが違うんですね。いつまでもフリーター、アルバイターの立場でいると、ゆるい川を下っていることになりますね。正社員の立場で自分の身の丈よりも大きい責任を背負って一生懸命漕ぐ、そうすることによって筋肉がつく。だから正社員にチャレンジしたほうがいいと。ある程度筋肉がついたころに上りたい山を見つけて、そこに全エネルギーを一定期間集中してみる、そうするとやがて何がしかのプロになれるというのです。

腹をくくる、目の前の仕事から逃げない

そしてチャンスをつかむために大事なことは、決して仕事から逃げないこと、腹をくくることです。女性の場合は結婚、出産というタイミングを機に働かないという選択肢が許されていますよね。そういう切り札を意識せずとも持っている可能性があるわけですが、それを企業は慎重に見ています。新卒採用の現場では、企業の人事担当の方も言っていますが、確かに女の子のほうが優秀なんだけれども辞めてしまう、投資コストがあわない、だから男性がほしいと。実際に勤続年数を見ても、男子13年、女子9年と開きがある。この差があることで、なかなか女性にチャンスが与えられない歴史が続いてきました。

とはいえ日本は昨年から人口減社会に入りましたので、女性の力に期待する企業が増えてきました。男女差別のないフェアな人材採用・育成を行いながら、同時に育児をケアする制度を整備する会社が増えつつあります。ですからなおさらですが、仕事と結婚・子育てを天秤にかけるのではなく、両立していくスタンスに立つべきだろうなと思います。ライフイベントに左右されず、仕事にちゃんと向き合っていく、と腹が決まった人には企業も安心してチャンス、つまりやりがいのある仕事、教育の機会、ポジションを与えることができます。この人辞めちゃうかもしれないという人には怖くて仕事を与えられないというのが実態ですね。

とらばーゆでは「これが女の出世道」という記事を連載しており、企業の中で高いポジションに上がった人がなぜそんなに偉くなれたのかについてインタビューしています。これまでに上場企業の役員になった方たち27人にインタビューしました。上場企業の役員ですからかなり高いポジションですよね。なぜ役員になれたのか?最初から役員を狙ってバリバリ努力していたかと思っていたのですが、実態はまったく違っていました。なんと、最初から長く働こう・出世しようと思ったのは4人だけ。あとの11人は長く働こうと思っていたけれど出世は関係ない。そしてあとの12人は長く働くことさえ思っていなかった、結婚したら辞めようかなぐらいの志で社会にデビューしていたんですね。ところが会社に入ってチャレンジャブルな仕事に出会い、一生懸命やってみたら仕事って頑張ればちゃんと返ってくるものなんだ、こんな面白いことならずっと続けていこうと。なんらかのいい仕事の経験をして、仕事と向き合っていこうと思える腹が据わる経験をしていたんですね。それによってキャリアプランが変わって、結果的に役員まで上り詰めた人が大半でした。仕事と向き合う、腹をくくること、それが大きなチャンスにつながるわけです。

チャンスにはのってみる。そしていつも笑顔でいること

あとはチャンスにのってみるというのも大切です。チャンスが来た時点で選ばれているんですよね。せっかく期待されているのだからまずはやってみればいい。失敗したら、選んだほうが悪いくらいの気持ちでやってみたらいいと思います。そして年齢を言い訳にしないこと。いくつになっても新しいことにチャレンジしてほしい、そうすることでやりたいことにどんどん近づいていける。最後にチャンスをつかむために、今日からできるとても簡単なことをお伝えします。それはいつも笑顔でいること。ニコニコしている人の回りには人が集まりますね。人は情報やチャンスを持ってきます。無愛想な人のところに人は寄ってきません。前述したワークス研究所の大久保幸男さんも、「仕事のための12の基礎力」という著書の中で、リアクション力、愛嬌力、そして楽天力の大切さを指摘しています。このあたりの力はチャンスを集める上で大切ですね。

転職活動のアドバイスも一言。やりたい仕事を見つけるための情報収集方法ですが、まずは行動です。具体的な仕事の情報にたくさん触れることが大切です。皆さんの頭の中にある何百倍もの種類の仕事が世の中にあるからです。何かいい仕事はないかというときに、雑誌をパラパラ見るのはいい探し方です。自分で決めつけ過ぎず、幅広い情報に触れることが大切。そして仕事の情報を見るときは、出来るか出来ないかではなく、やりたいかやりたくないか、という視点で見てください。例えば、もしその仕事にチャレンジしたら、自分は1年後にどれくらい成長できるか、という視点でみてみるとワクワクすると思います。その自分が今よりいいなと思ったら、ぜひ応募してみる。興味を持った会社にどんどん話を聞きに行く、応募する側としてちゃんと会社を見てみる、それを繰り返すと自分のやりたいことが見えてくると思います。

応募書類についてのアドバイスもひとつ。よく「気の効いた志望動機が書けない」という悩みを聞くのですが、考えても志望動機が書けないような求人には応募してはいけません。それはそもそも志望をしていないからですね。志望動機は内から湧き出てくるもの。でも気になる求人があれば、情報収集をしてみると、なぜそれに惹かれたのかがわかり志望動機が書ける様になれます。本当に志望しているかどうか、考えてみるほうがいいですね。

いま、求人環境はとてもいいですし、女性への期待も高まっています。ぜひ、今日をきっかけに何か行動を起こして、チャンスをつかんでください。

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